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廿日市市宮島町(安芸国厳島)で、1555(天文24)年毛利元就と陶晴賢との間で行なわれた合戦「厳島合戦」です。 |
厳島(宮島)は古来より神の島で、平地が少なく戦場に適した土地ではありませんし、昔の武将は敬神崇仏の念も強かったはずだったにも拘らず厳島が戦場になりました。
これには、劣勢が歴然としている毛利軍が、陶軍に対して勝ち抜く為の非常手段で、普通の戦闘方法では到底勝ち目がなかったからだと云われています。その為毛利元就(1497-1571)は百方手段と尽して陶軍を厳島に引き付けたのです。 |
厳島合戦より前、天文20(1551)年大内義隆(1507-1551)を討ち、大内氏の故地を領し実権を握った陶晴賢(すえはるかた:1521-1555)と対立するに至っていた毛利元就はその(天文20)年厳島の宮尾に城(宮尾城)を築きました。
これは厳島が周防から安芸へ水運を利用する際に重要な位置で、城を築くことで水運路を扼することを狙ったものでしたが、同時に陶軍を厳島に誘引するいわば囮(おとり)の役割も果たしていました。
天文23(1554)年9月に宮川房長(1496?〜1554)ら陶方の軍が安芸に侵入し折敷畑の戦いで敗れたとはいえ、当時陶晴賢は石見津和野城主・吉見正頼(1513−1588)を攻略していたため戦闘が大規模化することはありませんでした。
天文24(1555)年4月から6月にかけて両軍の間で小競り合いが発生しましたが、この時も本格的な戦闘にはなりませんでした。 |
天文24(1555)年9月21日陶晴賢自身が大軍(岩国付近を出発した時の船団の規模は500艘、兵の数は2万とも3万とも伝えられています)を率いて厳島・大元浦に上陸、第一線を塔の岡から大御堂に敷きました。塔の岡付近は民家を撤去し、前面に柵を構え逆茂木を置きました。
鐘撞堂の丘、平松、大聖院、多宝ヶ岡、十王堂に亘る第二線を構え、更に御山、駒ヶ林を第三線とし、有の浦から大元浦に亘っては海軍の主力を置きその外縁は須屋浦に及ぶ広大な海域を守らせました。
この厳島への渡海を快しとしなかった弘中隆兼(1521-1555)も2日遅れて渡島し、右翼の弱点を見て、博奕尾の険を固めて布陣は完璧となりました。
晴賢は先ず多宝ヶ岡に進みましたが敵陣が見えないので塔の岡に陣を進めて指揮をとりました。 |
一方の毛利軍は、(当時は半島であった)宮の尾に城を築き、新附の己斐豊後守、新里掃部助を置き、督戦隊には福原・宍戸の譜代の歴戦者を入れました。
この城は三方が海で、山の手に取水口があり、水の道を断たれ城を掘り崩しに掛かられては甚だ危険な状況でしたので(9月晦日に総攻撃が決まっていましたが)9月28日夜小早川隆景(元就の三男:1533-1597)を将として熊谷父子を副え、折柄救援した能島、来島の水軍(海賊)を援護として宮尾城を救援しました。 |
9月30(晦)日はあいにく空模様が怪しかったのです。
毛利元就は、出発に当たり「風雨頻りならば滞留することもあろう。一同二、三日分の兵糧を持参せよ」と命じ、進撃については厳しい軍令を下し、周到の注意を与え、かつ出陣前に食事を摂らせました。
夜半荒天の中、元就は「風は激しくとも追風だ」と云い船団は予定陸上地点「包ヶ浦」に全軍無事着船しました。この時乗船は悉く地御前に帰らせ背水の陣を敷いたのでした。(一説には杉の浦にも少数上陸したとの説もあります)
10月1日早朝、第一目標の博奕尾には陶軍の名将弘中がいましたが、不意を衝かれたことやたかだか一支隊に過ぎなかったことから適時退却して本隊に合流しようとしましたがこれが逆効果となり第一線を混乱させ、加え毛利の海軍が対岸で一斉に篝火をつけたので、周章狼狽し、宮尾城からもこれをみて逆襲したことで陶軍の第一線は散々に打ち破られてしまいました。
風雨を避けて紅葉谷に一夜の休養を取った晴賢はその報に第一線に走りましたが如何ともすることができず陶軍は総崩れになりました。敗軍の将兵は御垣ヶ原を、又は山路をひたすら西に走り、海に走るものもありました。
吉川元春(元就の次男:1530-1586)は退却する陶軍を追撃、弘中は晴賢を大元方面に退却させた後、御綾川を楯に抵抗しましたので、勢いに乗った吉川勢もその勢いをもてあましました。元春自身が前線に出てきたことで弘中勢は滝小路に走り、追撃した元春でしたが不意に左側から迫る陶軍敗残兵の為危険な状況に陥りました、しかし、熊谷、天野などの救援で危うく虎口を逃れました。これにたまらず弘中勢は滝小路の民家に火を放しながら退きました。これをみて元春は追撃の手を弛めて消火に当たらせました。
弘中は更に大聖院の線に退き戦況を窺い、大元方面に退いた陶軍と多宝ヶ岡の軍と共に挾襲に出ようと抵抗しましたが、大願寺の原での激戦で敗戦し、大元浦に退いた晴賢の戦況も芳しいものではなく、西山峠の険でも抵抗しましたが、頼みにしていた三浦房清が大元浦で戦死し万事休し、晴賢が敗残の兵を率いて海岸を西に走ったと聞き大聖院で最後の抗戦を試み、出城趾で戦い、更に龍ヶ馬場の険とどこまでも抵抗しようとしましたが、出陣の準備に欠け早朝からの激戦に疲労困憊のうえに飢餓に苦しみました。弘中の将兵はこれに耐え忍びその後三日間抵戦しました、が、最後に弘中主従は自刃して終末を告げました。
晴賢は猶最後の望みを捨てず嶮岨を超え海岸を走り西の方遥かに落ち延びましたが一艘の船もなく部下も少なくなり高安ヶ原で自刃したと伝えられていますがその場所は詳らかではありません。晴賢の自刃が確認されたのは四日目でした。
10月5日に毛利軍は厳島から引き上げて対岸の桜尾城(現在の廿日市市)に凱旋、この時晴賢の首実検も行われたそうです。 |
※資料は、厳島神社社務所発行「伊都岐嶋」他を参考にしました。 |
広島ぶらり散歩「宮島・厳島神社」編を編集していくうちに厳島合戦の事を抜きにはできないことがわかり、「厳島の戦い(厳島合戦)」の解説は概略ですが、現地をぶらり散歩して頁を編集することにしました。
対岸の廿日市地区にも(交流ウォークで訪ねたときに)その関連の地が残っていることも知ったのです。 |
08.01.28更新 07.12.17裕・記編集 |