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廿日市市宮島町包ヶ浦に残っている防空壕跡です。 |
毛利元就上陸之跡・碑が建立されている包ヶ浦自然公園公園を出て(杉之浦に至る)杉之浦隧道手前の道沿いに塞いだ防空壕をみたので撮影しました。
杉之浦隧道を出て道沿いに下部を埋め戻した防空壕をみましたので、これも撮影しました。 |
1887 |
明治30年 |
基町に大阪砲兵工廠広島派出所設置されました。 |
1905 |
明治38年 |
広島陸軍兵器支廠に昇格。 |
1940 |
昭和15年 |
陸軍兵器補給廠に改称。 |
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民間人がほとんどいない地区の防空壕ですので、軍関連の防空壕だったのだろうな〜とは思いましたがわからなかったのですが。
近くに廣島陸軍兵器補給廠長揮毫の「毛利元就上陸之跡」が1941(昭和16)年に建立されていることから関連があるのだろうと思ったのです。 |
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2012年「包ヶ浦(毛利元就上陸の地)」の近くに防空壕があったのだと思っただけで頁は編集してなかったのです。 |
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環境省の資料に
・「宮島沖毒物投棄疑惑事案について」1996(平成8)年1月29日。
・「宮島沖毒物投棄問題一件」1995(平成7年) がありました。 |
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「1946(昭和21)年か1946年の夏に、包が浦の海岸のすぐ近くの横穴から、普通のドラム缶をひとまわり小さくしたドラム缶40〜50本を舟艇に運び込み、宮島沖で投棄した。投棄に関わったのはこの1回だけで、缶の色は濃紺か灰色でかなり重かった」と当時の占領軍のランチ(≒小型の船)の助手の証言。 |
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「包が浦の警戒が厳重な防空壕の中に、大型ドラム缶(高さ約1.2m)が60本程度、中型ドラム缶(高さ約80cm)が30本程度、小型ドラム缶(高さ約30cm)が50本程度保管されており、中身は全て毒物が混入していた。
防毒マスクも50人分程度保管されていた。中型ドラム缶の中身は全て固形物で、警護の軍人から蓋を開けて『そのいくつかは自決用のシアン化合物である』と見せてもらった。中型ドラム缶には『毒』と書かれ、1缶に3色程度の帯状テープが塗装されており、蓋の開口部に中身の目印と思われる色(赤・緑・青)が塗られていた。小型ドラム缶には、当時の化学表示とは異なる色分けの帯状テープが塗装されていた。缶は1945(昭和20)年10月まではそのままあったが、その後大部分は海洋投棄されたらしい。友人から聞いた話では、缶の一部は日本軍が白石灯台南の海域に投棄した模様で、1947(昭和22)年の春頃には占領軍の指揮のもとに白石灯台南の海域に投棄したと聞いた。また、これとは別の知人から、占領軍が海中投棄する前に旧日本軍関係者が中型のドラム缶5〜6本を持ち去り、残りの大型ドラム缶20〜30本と大きい砂浜の丘に残っていた数10本のドラム缶を海洋投棄したと聞いている」と当時学徒動員で軍関係の作業に従事の証言。 |
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上記などの海中投棄の証言が、大久野島由来の毒物の可能性があったことから、1995(平成7年11月〜1996(平成8)年3月15日の間、広島県が関係者に事情の聴取を実施した。
その結果、数十本のドラム缶を宮島沖に運搬し投棄したことは確認されたが、内容物の特定には至らなかった。また、漁業関係者による引き揚げの情報もなかった。 |
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2015年のいまになりましたが、上記のような資料をみましたので、軍関連の防空壕であった事がわかりましたので、この頁を編集しました。 |
15.07.26.裕・記編集 |