(宮島の)ヘレンケラー燈籠

  廿日市市宮島町の御笠浜の石燈籠群の中で、ヘレンケラーが手を添え写真に納まった石燈籠を「ヘレンケラー燈籠」と呼んでいます。
ヘレン・ケラーは、3度来日しています。1度目は1937(昭和12)年、2度目は1948(昭和23)年と3度目が1955(昭和30)年です。
そのうち1度目の時と2度目の時に宮島を訪れています。
1948(昭和23)年(被爆地・広島、長崎も訪問した)時に宮島をも訪問し島民が総出で出迎えたそうです。その時、大鳥居近くの御笠浜沿いの石燈籠群の中に、ヘレンケラーが石燈籠と一緒に写った記念写真が残されているのです。

ヘレン・ケラー(Helen Adams Keller:1880-1968)
米国の教育家・社会福祉事業家。2歳のときに盲聾唖となるが、三重苦を克服してラドクリフ女子大学を卒業。世界各地を歴訪、身体障害者の教育・福祉に尽くしました。著「私の生涯」など。
・(平和記念公園の原爆供養塔を調べている時)
1948(昭和23)年10月13日ヘレンケラーが広島市戦災死没者供養塔へも訪問した事を(わたしは)知りました。
・また、(長崎の如己堂を見学した時)
1948(昭和23)年10月ヘレンケラーが如己堂に立寄り永井隆博士(1908-1951)とかたい握手を交わされた事も知ったのですが、
宮島を訪れていることは知りませんでした。
2007年交流ウォーク下見、本番で何度か宮島を訪ねた時に、大鳥居を背景にヘレンケラーが手を添えて写った石燈籠がある事を知りましたが、どれがその石燈籠かはわかりませんでした。
ヘレンケラーが記念写真を撮った石燈籠から「ヘレンケラー燈籠」と呼ばれるようになったようです。
今(2012)年交流ウォーク下見の時片岡会長が、ヘレンケラーが写った写真を入手されていましたので、現地でどの石燈籠か特定しようとしましたが、宝珠の丸み具合、笠の欠け具合、(丸)竿の具合を写真と比べてみました。そして大鳥居と石燈籠の位置関係を比べてみました、また、写真に写る対岸・大野町の山の稜線と大鳥居の関係をみました。
だいたいこれではと思われる石燈はありましたが決定打ではありませんでしたが。
石燈籠の欠け具合は(小さくなることはありませんが)2004年台風18号で被害を受け、石燈籠が脆くも倒れているところをみたので過去の暴風雨で欠けが大きくなる事もあるので余り信頼できる判定方法ではないし、石燈籠と大鳥居の写っている位置関係も大シケで燈籠が倒れたり海の中に落ちている石燈籠もみましたので、復旧される時位置が変わるということも考えられますので特定できないのではと思ったのです。
コロナ禍の2021年正月閑散とした宮島でした。厳島神社´火焼前’付近から御笠浜をみてヘレンケラー燈篭はどれかなと思ったのですが、(目を悪くしているからではなく)わからなかったのです。23.01.23.追記
敬称は略しました 12.08.20更新    12.05.03裕・記編集

03.11.16撮影
広島県廿日市市宮島町 (御笠浜の石燈籠群で、多くの人たちが記念写真を撮るようです) 

04.09.08撮影
2004年宮島も襲った台風18号で御笠浜の石燈籠にも被害があった処です 

12.05.01撮影
左側の石燈籠がいわゆるヘレンケラー燈籠と呼ばれているものではと思われますが

12.05.01撮影
第二候補?の燈籠のところで、交流ウォーク・増田先生にポーズをとってもらいました

12.05.19撮影
海側からみてみました

21.01.22.撮影
厳島神社から御笠浜をみました

21.01.22.撮影
どれがヘレンケラー石燈籠だろうかと・・・(観光客は写っていません) 



「石燈籠など」編



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二位の尼の石燈篭
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曽我兄弟(供養)燈籠


「安芸の宮島」編


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