(宮島の)曽我兄弟の燈籠

  廿日市市宮島町の(現在の)厳島神社入口の処に建立されている「曽我兄弟の燈籠」です。
曽我兄弟(そがきょうだい)
  鎌倉初期の武人。(父の仇を討ったことで名高い兄弟)伊豆の豪族・河津三郎祐泰(すけやす)の子。
兄は十郎祐成(すけなり)(1172-1193)、幼名:一万(いちまん)。
弟は五郎時致(ときむね)(1174-1193)、幼名:筥王(はこおう)。
1176(安元2)年父祐泰が伊豆の奥狩場で工藤祐経(すけつね)に殺されたのち、母が曽我祐信(すけのぶ)に再嫁したので曽我氏を称していました。
鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147-1199)の寵により勢いを得ていた工藤祐経は、曽我兄弟を殺そうと謀ったが、畠山重忠(しげただ)・和田義盛(よしもり)らによって救われました。
筥王は一時、箱根別当行実(ぎょうじつ)の弟子となりましたが、1190(建久元)年北条時政(1138-1215)によって元服しました。成人した兄弟は祐経をねらっていましたが、仇討の機会がななかなかなかったのです。
1193(建久4)年5月源頼朝が催した富士野の巻狩りに、同行していた工藤祐経の宿所をつきとめ、夜半風雨を冒して侵入し、工藤祐経を殺して父の仇を討ちました。
しかし兄・祐成は宿衛の新田忠常(だつね)に討たれ、翌日弟・時致も捕らえられ殺されました。
曽我兄弟を供養するために寄進された二基の燈籠を「曽我兄弟ノ燈籠」と呼んでいるそうです。
現在の厳島神社入口近くにあります。
2008年交流ウォーク関連で訪ねた時に曽我兄弟の燈籠と呼ばれている事を知り、「安芸国厳島神社及曽我兄弟ノ燈籠」という絵葉書でこの燈籠だと云う事を確認しましたが頁を編集していませんでした。
誰が寄進したのかわかっていないようです。曽我兄弟の仇討ちが、後に謡曲・歌舞伎などの題材となったことでこの仇討ちに感動その死を憐れんだ人が寄進したのであろうと(わたしは)考えました。
仇討ち後すぐに兄弟が殺されたので寄進は出来なかったでしょうし、兄弟の母は仇を討ったのちは、(曽我)祐成の愛人大磯の虎と共に箱根に登り、ふたりの供養をしたそうです。
60歳ほどで亡くなったそうですが、遠く安芸国厳島神社に供養の旅で来たとは考えられませんよね。
12.08.26.裕・記編集

08.02.14撮影
広島県廿日市市宮島町 (厳島神社入口西側) 

08.02.14撮影

08.02.14撮影

08.02.14撮影

08.02.14撮影

12.05.19撮影
厳島神社入口の所からみました



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