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廿日市市宮島町にある「博奕尾」をこの頁で取り上げました。 |
博奕尾(ばくちお)
風雨こそ治まったとはいえ、深い暗闇の中を、二千余の毛利軍は険しい山道をよじ登り包ヶ浦からやっとこの屋根にたどりつきました。
毛利元就は、傍らの兵にこの地の名を尋ね、「博奕尾」と聞くと、
「昔、源義経(1159-1189)は勝浦に上陸して平家に勝った。いま吾等はこの博奕尾にのぼった。博奕もうつもの、この戦はもはや打ち勝った!」と将士を励ましました。
一方、陶晴賢は、これを夢にも知らず、本陣を五重塔のそびえる“塔の岡”に置き、二万もの精鋭を各所に配置し、右前方の宮尾城(要害山)に相対するとともに毛利軍の上陸を待ちかまえていたのです。
こうして弘治元(1555)年10月1日寅の刻(午前四時)頃日本三大奇襲戦の一つと云われる「厳島合戦」の幕が切って落とされました。 |
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(ばくち)
博打;博奕: |
〔「ばくうち」の音変化〕
1.賽(さい)・花札トランプなどを用い、金品をかけて勝負を争うこと。賭博(とばく)。ばくえき。
2.偶然の成功をねらってする危険な試み。 |
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設置の説明板には「博奕尾」を使用していますが、宮島観光協会が配布している“みやじま自然散策マップ”には「博打尾」を使用しています。辞書を引くと、並列していますのでどちらでもいいのかなと。 |
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厳島合戦(いつくしまかっせん)、厳島の戦い(いつくしまのたたかい)ともいう |
1555(天文24)年10月1日、主君大内義隆(1507-1551)を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた:1521-1555)を毛利元就(1497-1571)が厳島に敗死させた戦い。
毛利氏発展の基となる。陶軍兵力は2万とも3万ともいわれ、毛利軍兵力は4千から5千といわれています。嚴島合戦は、日本三大奇襲戦の一つに数えられているそうです。 |
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1997(平成9)年NHK大河ドラマ毛利元就を見ていた事で、ここ博奕尾のことは知っていました。また、宮島観光協会が配布している“みやじま自然散策マップ”に「包ヶ浦自然歩道」として整備されていることでも知っていましたので、いまは毛利軍がよじ登るほどの嶮しい山道ではないとわかっていても嶮しい山道と云うことで、ぶらり散歩にはチト尻込みしていました。
2007年に厳島合戦(概論)の頁を編集して以来少しづつ、関連の地を訪ねていました。
2012年4月にやっと駒ヶ林(龍ヶ馬場)に行きましたので、次はここ博奕尾峠だなと思っていました。10月になって毛利軍が進軍した包ヶ浦から塔の岡という道順ではなく逆方向、紅葉谷からここ博奕尾を通り、包ヶ浦に出たのでしたが、包ヶ浦自然歩道を一人歩いてみました。土曜日午後というのに途中2人一組の人たちとしか出合わない淋しい自然歩道でした。 |
13.01.08.裕・記編集 |