楢原北悠作品:平清盛(五條袈裟姿)像

  廿日市市宮島町胡町の宮島桟橋根際広場に建立されている楢原北悠作「平清盛(五條袈裟姿)像」です。
※平成26(2014)年3月に建立されました。
この平清盛は、宮島桟橋旅客ターミナルを出て、右側の海岸の処に建立されています。
高さ190cm、材質はリン青銅。清盛像は、京都の方向を向き国家安泰を念じている姿で、(当時の)正装の一つでもある僧侶鈍色五條袈裟姿を身に着け、左手に数珠、右手には扇を上げ衰えぬ情熱を表現したそうです。
台座は、御影石製で高さ65cm65p。題字は、NHK大河ドラマ「平清盛」の題字を書いた金澤翔子の揮毫。
2014年(平清盛の命日に当たる)3月20日に除幕式が催されました。
設置者:平清盛記念事業実行委員会
銘板揮毫:金澤翔子
銅像製作者:(株)楢原ブロンズ彫刻楢原北悠
寄附者:84社名・芳名
平成26(2014)年3月20日設置
    (総事業費約1,200万円だったそうです)
    平清盛(たいらのきよもり:1118-1181)
平安時代末期の武将。保元の乱・平治の乱を経て武士の第一人者となり1167(仁安2)年には太政大臣に昇りつめました。1179(治承3)年後白河法皇を幽閉し、翌(治承4)年には娘・徳子が産んだ安徳天皇を擁立して平氏政権を樹立したが、貴族や寺社などの反発を招き、源頼朝(1147-1199)をはじめとする諸国の反平氏勢力の蜂起が広がる中、1181(治承5)年熱病に倒れ、64歳でその生涯を閉じました。
清盛がいつどのようにして嚴島神社を信仰するようになったかは詳らかではありませんが、1146年と1153年に安藝守に任じられ、1160年には嚴島神社に参詣しています。以後、清盛の嚴島参詣は記録で明らかなものだけでも十度に及び、1168年には清盛によって現在のような嚴島神社の社殿が造営されました。
1164年清盛と平氏一門は法華経などを書写して嚴島神社に奉納しました。いわゆる「平家納経」(現在国宝)です。また、清盛は「舞楽」を嚴島にもたらし、当時都で盛んに行われていた管弦を奏する遊楽も移したと云われています。これが、現在は嚴島神社の神事として行われている「管弦祭」(旧暦6月17日)のはじまりです。
2014年宮島桟橋根際の広場に平清盛像が建立されたと新聞報道で知りましたが、腰痛に悩まされた2014年でしたので撮影に来ることもままならない状態だったのです。
今(2015)年になり宮島競艇場に来ましたので、足を延ばして(連絡船に乗って)、宮島桟橋横のこの平清盛像を撮影しました。
費用的な事もあったのでしょうが、銅像に比べ台座の低さが気にかかりました(もう少し背が高い台座が似合うのではとわたしは思いました)。
コロナ禍の2021年閑散としている宮島をニュースでみましたので、雨模様でしたので、今まで見たことがないほど閑散とした中、息子と少しばかり遅くは生っていましたが、初詣でやってきました。
観光客が写り込まない構図でしたので撮影しました。
22.01.16.更新  15.01.18.裕・記編集

15.01.24.撮影
廿日市市宮島町胡町 (宮島桟橋根際広場)

15.01.03.撮影

15.01.24.撮影
製作者:(株)楢原ブロンズ彫刻 楢原北悠

15.01.24.撮影

15.01.24.撮影
(揮毫:金澤翔子)

15.01.24.撮影

15.01.24.撮影

15.01.24.撮影

21.01.22.撮影

21.01.22.撮影

21.01.22.撮影

21.01.22.撮影
(コロナ禍でなければ観光客が写り込むのでしょうが)
敬称は略しました



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