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廿日市市宮島町西大西町の‘経の尾’に建立された「宝筺印塔(清盛塚)」です。 |
宮島の経塚は、清盛塚とも云われ、経塚がある丘を「経の尾(きょうのお)」と云うそうです。
経塚の先丘の端に宝筺印塔があります。
風化して刻まれた文字はよくわかりませんが、石質は砂岩と云われているようですが(わたしには)よくわかりません。相輪は折損して一部を上に載せてあります。隅飾りの形などから伝説通り平安期のものと推測されており、これを清盛塚と呼んでいるそうです。 |
(ほうきょういんとう)
宝筺印塔:
宝篋印塔: |
方形の基台上に四角の塔身を据え、方形の階段状の屋根を置き、上に相輪を立て、四隅に突起状の飾りをつけた形の塔で、内部に宝篋印陀羅尼を収めたのでこの名があります。
宝篋印塔はもとは密教系の石塔でしたが、鎌倉期以降は宗派を超えて造立されるようになりました。
滅罪や延命などの利益から、追善(死後に供養すること)・逆修(生前にあらかじめ供養をすませること)の供養塔、墓碑塔として、五輪塔とともに多く造立されました。 |
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新しく書き直された説明板には、
『この丘は経ノ尾と呼ばれています。
経塚は清盛塚とも云われ、清盛(1118-1181)が平家一門の繁栄を祈願して一字一石経を埋めたと伝えられています。
昭和19(1944年)年開墾の際一部が発掘されて、銅製の経筒、陶製の甕(かめ)と中国宋代の白磁の盒子(ごうし)、梅花双雀鏡、刀片などが発見されました。これらはすべて平安時代のものとみられます。経塚のあたりは積石で覆われ、宝筺印塔、石燈籠などがありますが、後世のものです。』と記述しています。 |
新しくなった説明板には、あっさりと宝筺印塔は平安時代のものではなく後世のものと否定されていますが、厳島神社社務所発行「伊都岐嶋」には平安時代の形が残っていると記述してあります。
また、資料によってはこちらの宝筺印塔を清盛塚と呼んでいるものもありましたので、2012年NHK大河ドラマ「平清盛」に合わせて整備されていましたので、2008年当時撮影のものとあわせてこの頁を「経塚」とは別に編集しました。 |
12.08.23.裕・記編集 |