(現在の)厳島神社大鳥居は九代目という新説

  2022(令和4)年12月(厳島神社)大鳥居保存修理工事完了に合わせて、現在の大鳥居は九代目と(新聞などの報道で)断定した云い方になっていますので、少しばかりの疑問を持ったわたしですので、改めてこの頁を更新しました。
*1) 2019(令和元)年から始まった大鳥居保存修理工事に合わせて行われた調査で新たな発見があったそうです。
2020年7月20日中國新聞で「(現在の)宮島大鳥居、九代目か?13世紀前半にも再建の新説」との見出しで知りました。
*2) 2022年12月18日中國新聞特集(右画像)では、
1223(貞応2)年~1240(延応2)頃に二代目が建造され、現在の大鳥居は九代目と断定した記事になっていましたので、中國新聞社は九代目だと確定する歴史的検証をしての記事なのかと(わたしは)少々疑問を持ちました。
また、2023年2月保存修理工事が完了した大鳥居を撮影に出かけたときに乗ったJR連絡船でのアナウンスでも現在の大鳥居は九代目と断定した云い方で紹介していました。
2022年10月NHKラジオを聞いていると宮島在住の人が、いまの大鳥居は九代目だとわかったと断定していましたので、“九代目と断定されたわけではなく”これからの研究次第で、九代目となる可能性があるということなので、中國新聞報道を参照する形でこの頁を編集しなくてはと思ったのです。
1240年に書かれた工事報告書「伊都岐嶋社内外宮造畢未造殿舎注進状案」の中に、「造畢分」(すでに造り終えた物)として「大鳥居一基」の記述が発見された。
これが即、二代目の大鳥居建造を表し、この文献一つで、現在の大鳥居が数えて九代目と断定できるのだろうかという(わたしの)疑問なのです。
23.02.21.更新   22.10.07.裕・記編集
*2)
九代目とする根拠は020年7月20日中國新聞記事を参照しています。
『1240年に書かれた工事報告書の「伊都岐嶋社内外宮造畢
(ぞうひつ)未造殿舎注進状案(ちゅうしんじょうあん)」の中に、「造畢分」(すでに造り終えた物)として「大鳥居一基」の記述が発見された。
また、厳島神社は1207(建永2)年と1223(貞応2)年に大規模な火災に遭っている。
このときに、内宮(海上社殿)だけではなく、焼失しなかった外宮(地御前神社)も1240年までに再建された。内宮と外宮は一体と考えられていたためとされる。この期間内に、神社のシンボルである大鳥居も再建された可能性が高い』という。
上記の文献だけで、二代目の大鳥居が建造されたと結論づけられるのか?
この文献だけだとすると「九代目と考えるられる」というような断定しない云い方が適当なのではないのかと思うのですが。
上記の文献から
造り終えたものということは(当時倒壊していても)初代大鳥居のことと考えることはできないのか?
外宮(地御前神社)の鳥居のことではと考えられないのか?
二代目建造と考えられるという1207年~1223年の時代背景を考える
「平清盛(1118-1181)が没し、平家が(1185年4月壇ノ浦の戦い)で滅び、鎌倉幕府の時代に、三代源実朝(暗殺1219年1月)で執権・北条義時(1224年没)が権力をにぎる。承久の乱(1221年6月)で、後鳥羽上皇隠岐の島に流され、鎌倉幕府の支配が機内、西国にも強くおよぶようになる。
安芸の国には武田信光が守護に任命されたが、守護代を派遣していた。
守護武田氏が二代目大鳥居建造の檀那になったとは考えにくい?ので、
国としてはまだまだ混乱期で、建造資金をだした人物はいないと考えられるのでは?
当時の大鳥居は明神鳥居だったので両部鳥居ほどの材料・費用はかからなかったでしょうが。
理工系だったわたしですので、歴史を専門に勉強をしたわけでもないということをお許し願っての疑問です。
自説に都合がいい文献が出たからと云って、他の文献の補強があれば確定してもいいのかもしれませんが、中国地方の言論を牛耳る中國新聞であるのだから歴史的検証を経ての記事になったのかと思ったので取り上げたのです。
*1)
2020年7月20日中國新聞記事を(まるまる)参照しています。
厳島神社のシンボル大鳥居について、
平清盛(1118-1181)の援助で建設された1168(仁安3)年ごろを初代として現在は八代目とされてきたが、少なくとも九代目の可能性があることが厳島神社の原島誠技師(62)の調査で分かった。
1223(貞応2)年~1240(延応2)年に再建されたとみている。
大鳥居の建造は、従来考えられてきた三代目(1317年)以降の建立時期は文献で確認できているものの初代・二代目は未確定の要素があった。
原島技師が現在の大鳥居の修繕工事を機に、神社に伝わる文献を調査したところ、従来信じられていた1286年建立の二代目以前に、1基が造られたとみられることが分かった。
1240年に書かれた工事報告書の「伊都岐嶋社内外宮造畢
(いつきしましゃ・ないげぐ・うぞうひつ)(ならびに)未造殿舎注進状案(みぞうでんしゃちゅうしんじょうあん)」の中に、「造畢分」(すでに造り終えた物)として「大鳥居一基」の記述が発見された。
また、厳島神社は1207(建永2)年と1223(貞応2)年に大規模な火災に遭っている。
このときに、内宮(海上社殿)だけではなく、焼失しなかった外宮(地御前神社)も1240年までに再建された。内宮と外宮は一体と考えられていたためとされる。この期間内に、神社のシンボルである大鳥居も再建された可能性が高いという。
現在が八代目とする説が広まったのは、約70年前に大鳥居が大規模修繕された後、厳島神社の修理委員会が編纂した「昭和修理総合報告書」なのです。
この中で、大鳥居の歴史について地方史研究家の調査を転載する形で現鳥居を「八代目」と記載された。以降、その説が宮島町史にも記されるなど広まってきた。
原島技師はかつて存在した有浦大鳥居と、現在の海上社殿近くの大鳥居を同一のものとする見方があり、二代目の建設時期が混同された可能性があるとみる。
原島技師は「厳島神社についてこれまで詳細な研究や検証がなされないまま、さまざまな言説が広まってきた。過去の文献などを通じて今後も神社の歴史を整理したい」と話している。
□信憑性あり、さらに研究必要。県立広島大の秋山伸隆名誉教授の話 
『鎌倉時代の前半での再建説についてこれまで明確に指摘されたことはなく、意義深い。
従来考えられてきた初代目と二代目の間は長く、その期間にこれまで知られていなかった再建があったというのは信憑性がある。
現在使われている観光関連の資料なども、今後変える必要が出てくるかもしれない。
同時に大鳥居の歴史についてはまだ知られていないことも多く、さらなる研究が必要です。』
平清盛が没して鎌倉幕府が権力を持っている時代背景で、承久の乱を経て幕府の支配が西国にも及んできたというものの安芸の国守護は厳島神社への関与は疎遠だたと思われるときに厳島神社大鳥居の再建がなされたのだろうかと(わたしは)思ったりしました。
  現在までの通説(現在の大鳥居八代目説)   令和の保存修理後の新説(現在の大鳥居九代目説)
歴代   建立・再建   備考
初代 1168(仁安3)年
二代 1286(弘安9)年
三代 1371(応安4)年
四代 1546(天文16)年
五代 1561(永禄4)年 檀那:
毛利元就(1497-1571)
毛利隆元(1523-1563)
六代 1739(元文4)年 浅野吉長(1681-1752)が重造
七代 1801(享和元)年 浅野重晟(1743-1814)退任中の志
浅野斉賢(1773-1831)重造
八代 1875(明治8)年
1911(明治44)年脚元修理。
1925(大正14)年脚元に鉄筋コンクリートの根巻を施す。
1951(昭和26)年一部(根元部分)が取替えられました。
  関連頁:大鳥居の歴史(詳細)
歴代   建立・再建   備考
初代 1168(仁安3)年 平清盛(1118-1181)大鳥居建設
二代 1223(貞応2)年      ~1240(延応2)頃
三代 1286(弘安9)年
四代 1371(応安4)年
五代 1547(天文17)年 大内氏の支援で再建
大内義隆(1507-1551)
六代 1561(永禄4)年 毛利氏の支援で再建
七代 1739(元文4)年
八代 1801(享和元)年
九代 1875(明治8)年
1899(明治32)年国重要文化財に指定。
1950~1951(昭和26)年昭和の大修理。
1996(平成8年)年厳島神社が世界遺産に登録。
2019(令和元)年6月約70年ぶりの大規模修復工事開始。
2022(令和4)年12月工事終了。
 ※上記「大鳥居の主な歴史」は中國新聞を参照しました。



厳島神社大鳥居-概説-
大鳥居拡大画像その1
大鳥居拡大画像その2
大鳥居拡大画像その3
大鳥居拡大画像その4
大鳥居資料
 現大鳥居は九代目という新説
大鳥居・旧根元材
大鳥居・根継ぎ部分
大鳥居・扁額
大鳥居(一遍聖絵)
暴風被害を受けた大鳥居
  令和の大鳥居保存修理工事
  令和の大鳥居保存修理工事完了


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