頼山陽煎餅 (藝陽堂)

  広島市中区堺町にある藝陽堂で焼いている「頼山陽煎餅」を取り上げました。
※2023年9月末閉店することを中國新聞報道で知りましたので、追記しました。
最近、旧西国街道に関する紹介をしばしば見聞きするようになりました。
紹介本を見ているとこの頼山陽煎餅のことが紹介されていました。
古く江戸時代からの名物ではないのですが、現在では珍しい手焼きということから紹介されるようになったのでしょう。1911(明治44)年に創業者が考えたという頼山陽煎餅、戦後1952(昭和27)年に現在地に移転したという藝陽堂(芸陽堂)。
1968(昭和43)年第17回全国菓子大博覧会において、頼山陽せんべいが、名誉大賞を受賞。
頼山陽せんべいは、小麦粉1:砂糖1.1:卵2.4の割合で焼くそうです
2012年1月RCC・TVアンガールズがやっている「元就」をみていると、この藝陽堂を取り上げていました。
上記のように頼山陽せんべいが菓子博で名誉大賞をとったこと、せんべいの割合を云っていましたので追記しました。
頼山陽煎餅と杓子形をした煎餅を500円分買いました。そして帰宅後食してみました。
幾分やわらかく卵の味が勝っている頼山陽煎餅より固めで卵の味がしない(入ってないのかも知れませんが)杓子煎餅の方が昔ながらの煎餅の味で好みだな〜と思いました、今のバターまみれのクッキーなど足元にも及ばぬぽど美味いと思いました。
{誤解ないように書くのですが、頼山陽煎餅が不味いということを(わたしは)云っているわけではないのです、戦前まではおそらく卵が貴重な時代でこの煎餅の卵の味に高級感を感じホッとしたのかも知れないと思ったのですが、戦後生まれ貧乏性のわたしには小麦粉と砂糖で焼き上げた(みなが貧しかった?時代の)煎餅の方がより好みに合ったということです。}
頼山陽 (らいさんよう:1780-1832)
江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人・書家。名は襄(のぼる)、通称は久太郎、別号を三十六峰外史。春水の長男。江戸に出て尾藤二洲に学ぶも、性豪放にして遊蕩に日を送り、自邸内に監禁。のち上京して書斎「山紫水明処」を営み、各地を遊歴、文人墨客と交わり、すぐれた詩文や書を遺した。その著「日本外史」は幕末期における歴史観に大きな影響を与えた。他に著「日本政記」「日本楽府」「山陽詩鈔」など。
2023年8月盆前の中國新聞(鈴木愛理記者記事)で9月末閉店することを知りました。記事大要
『昔ながらの手焼きで親しまれている「頼山陽煎餅本舗 芸陽堂」が9月30日、閉店する。
明治末期から続く創業112年の老舗。店舗の立ち退き要請や、原材料の価格高騰にあらがえず、惜しまれつつのれんを下ろす。移転して営業することも考えたが、年齢や材料費の高騰もあり廃業を決断した。
頼山陽の座像や原爆ドームなど九つの焼き型を使い、1日約700枚を弱火でじっくり焼く。材料は小麦粉、卵黄、砂糖だけ。香ばしい香りは店先にも漂う。製造担当の岡本浩史(62)さんは「炎が揺れると焼きむらができる。夏もエアコンなしで焼く」と。
岡本さんの義母で店主の平室
(ひらむろ)敏子(85)さんたちによると、1911年に塩屋町(現中区大手町)で創業。
創業当初の屋号は「ねぼけ堂」だったそうで、後年頼山陽煎餅を食べた徳富蘇峰(評論家:1863-1957)が「芸陽堂」と名付けたという。店を手伝っていた平室さんの義父勝三さんが店を受け継ぎ、戦後に現在地へ移った。』
2023年8月16日RCCラジオ“本名正憲のおはようラジオ”を聞いていたら、この芸陽堂の閉店の話題を取り上げていました。
その中で、創業当時の屋号が”ねぼけ堂”だったと云っているところを寝ぼけながら聞いていましたので、上記記事にはなかったなのですが記述しました。。
23.08.16.更新   04.09.01 裕・記編集

04.08.27撮影
広島市中区堺町2-6-23

04.08.27撮影
昔ながらの手焼き煎餅・・・・焼いているところを撮影させていただきました。

04.08.27撮影

04.08.27撮影
市内電車・土橋駅から西の方へすぐに店舗
店舗から煎餅を焼いているところが見えました
煎餅を焼く道具は
もみじ饅頭や梅ヶ枝餅のものと基本的には同じものでした。
500円分煎餅を下さいとお願いしました。 表:頼山陽の姿と頼山陽先生の文字を焼きこまれている
裏:頼氏、山陽、外史等の文字が凸に出ている       
頼山陽煎餅 おおよそ68×68mm 杓子煎餅
表には宮島大鳥居が・・



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