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中区千田町の千田小学校に造られている「大飼育館」です。
※この大飼育館に使用されている鉄骨材は、被爆した体育館の鉄骨材です。 |
千田国民学校講堂は、1929(昭和4)年鉄骨造平屋建で竣工しています。
1945(昭和20)年8月6日米軍投下の原子爆弾によりこの千田国民学校辺り一帯も全焼し、校地には講堂の曲がった鉄骨だけが取り残されたそうです。
児童は学童集団疎開中だったが、校内で児童3名、職員1名が犠牲になり、さらに高等科の生徒約50名は雑魚場町で建物疎開作業中でほぼ全員が犠牲になったと云われています。 |
爆心地から≒1690m (被爆当時の町名も)千田町2丁目でした。 |
敗戦後(1945年)9月1日には、残留児童の為に授業が開始され、集団疎開児童が帰校した10月25日からは(焼け残った)広島貯金支局の4階を借用して授業が再開されたそうですが、焼け残った講堂鉄骨はそのままの状態で、1956(昭和31)年6月にこの鉄骨を再生利用して飼育舎が造られるまでそのままだったそうです。 |
被爆した樹木の説明板にある飼育舎がこれだったのかと、2006年7月交流ウォークのときに撮影したのですが、グラウンドからは樹木が邪魔したりで飼育舎撮影はいまいちなのです。
10月近くまで行きましたので学校にお願いして校内に入れていただきグラウンドの方からみて上部だけしか覗いていませんでしたが撮影しました。 |
2011年、広島平和記念資料館平成23年度企画展「こどもたちの見た戦争」でみていて展示パネルにここで取り上げた千田小学校(被爆当時・千田国民学校)の被爆被災した講堂のパネルがありました。2014年のいまになりましたが、その画像を加え頁を更新しました。 |
14.09.14.更新 06.10.24裕・記編集 |