「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」第四号碑日本福音ルーテル広島教会

  中区鶴見町のルーテルビルに設置されている「「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」第四号碑」です。  
2004(平成16)年7月25日に除幕式が行われた時、絵の作者・森下弘さんは『絵は、私がこの近くで被爆した瞬間の模様を描いきました。市の記録では疎開作業で600人が亡くなったとあります。あたりが真っ赤に燃えました。広場に倒れた生徒たちの様子を描いています。顔や手足にやけどを負い、同級生70人みなやけどです。私は投下の直後、川に飛び込み山へ逃げました。・・・・日常の生活で目に触れることは辛いでしょうが、平和な日が続いてほしいからこその願いです。・・・』と述べられたそうです。
“原爆の絵碑”4号碑について        2004(平成16)年3月21日
この2枚の絵は、1945(昭和20)年8月6日旧制広島一中三年生(14歳)約70名が、学徒動員で建物疎開作業の直前に、被爆した時の様子を表したものです。場所はこの4号碑の附近であったと思われます。作者の森下弘さんは高等学校や大学で書道の教師をされると共に詩人や書家としても活躍されておりヒロシマを世界に伝える市民団体「ワールドフレンドシップセンター」(米国の故バーバラ・レイノルズ女史設立)の理事長であります。使用されている石材は60年前に被爆したものです。
関係者の方には大変失礼なことでしたが、資料を見てわたしはルーテル教会がここ平和大通りのこの地にあることをはじめて知り訪ねたのですが、教会がないな〜と通り過ぎていまし。
わたしが思い描いた教会の建物と違い近代的なビルディングの中が教会になっていたのです。階段を登ってこの碑を拝見したのでした。
05.12.31裕・記編集

05.11.03撮影
広島市中区鶴見町2-12 ルーテルビル  (日本福音ルーテル広島教会3階入口根際)

05.11.03撮影
(1945年)8月6日8時15分爆心から1.5km鶴見橋西詰で家屋疎開作業前私たち広島一中三年生(14歳)70名は、整列して(北向きに)作業上の注意を聞いていた。
爆発!巨大な溶鉱炉にすっぽりと投げこまれた感じとっさに伏せたが、すでに、顔、手、首、足を火傷、皮膚がたれ下った。そして、爆風がサーツと
その瞬間、一緒にいた70名が、一人以外は、どうなったか知らない。後日の話で、アンケートで、地上にたたきつけられた者、数米吹きとばされた者、気を失った者
みんなが将棋倒しに圧しかぶさって、息がつまり、そうだったと言う者、火傷馬が暴れていて怖かったと言う者・・・さまざま。想像して描いてみた。










 


















 







































 

閃光、熱線
瞬間、私たち70名の生徒は巨大な溶鉱炉にすっぽりと投げこまれたそして爆風が・・・
(鶴見橋西詰、爆心から1.5km)



「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」碑
1号碑 西応寺
2号碑 広陵学園
3号碑 広島YMCA
4号碑 ルーテル広島教会
5号碑 広島女学院
6号碑 天満小学校
7号碑 福島生協病院
8号碑 歯科医師会館
9号碑 赤十字原爆病院
10号碑 広島共立病院
(ルーテル広島教会関連頁)
日本福音ルーテル広島教会
被爆者が描いた絵碑:4号碑
  (被爆者が描いた絵)4号碑拡大頁
(ルーテル広島教会の)野外彫刻



広島ぶらり散歩へ


inserted by FC2 system