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呉市警固屋の“音戸の瀬戸公園”に残されている「高烏台・砲台跡」です。
※標高218m。28センチ榴弾砲6門を装備した砲台だった(そうです)。 |
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旧要塞砲台の沿革 呉市 |
この花崗斑岩造りの一連の構築物は、旧高烏(たかがらす)砲台の跡です。
明治16(1883)年第二海軍区鎮守府の候補地として呉港があげられ、明治19(1886)年7月軍港設置とともに敵の艦砲射撃に備えて軍港防備の陸上砲台は陸軍において構築することになり、陸軍予算として閣議にあがりましたが、第一期計画からは除外されました。
たまたま日清戦争(1894年〜1895)が起こるにいたって、広島に大本営が置かれるなど情勢の変転に伴って再び砲台構築の議が起り、明治29(1896)年陸軍の手によって砲台、火薬庫、兵舎などの工事が始まり、引き続き明治32(1899)年から三ヵ月の歳月を費やして完了しました。
後になって海軍の所管に移され太平洋戦争においては専ら防空砲台として使用されましたが、明治中期の軍港を護る要塞砲の形式としては珍しいものです。
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2003年のいまは、音戸の瀬戸公園(一部である高烏台)として整備されていますが戦争につながる施設、砲台、火薬庫、兵舎などの跡が今も残されていることにも目がいき撮影しました。
2021年訪ねたときに(2003年当時とは違う)案合図が設置され、砲台跡、兵舎跡の位置関係がわかるかなと思ったので掲載しました。また、兵舎跡は新たに撮影しましたので、別頁で編集しています。 |
関連頁:入船山公園に移築されている(高烏砲台)火薬庫 |
22.05.03.更新 03.05.05裕・記編集 |