ひろしまりくぐん ひふく ししょう
旧・ 広島陸軍被服支廠
  南区出汐に現在も残る「旧・広島陸軍被服支廠」です。
※現在、(多くの被爆建物と同じように使用しようとすると)耐震補強工事が必要なことから(その工事費の負担から)使用されないまま、朽ちていくのをみるだけとなっています。
※2022年報道を見聞きしていると、全棟保存されることになったそうです。
現在残っている広島陸軍被服支廠だった建物は
爆心地から≒2,670m
 
被爆当時町名:出汐町 鉄筋コンクリート造レンガ貼、2階建て、1913(大正2)年8月竣工
※  -広島陸軍被服支廠略沿革-
1905(明治38)年4月陸軍被服廠広島派出所
が宇品線の沿線に当初管理棟、工場、倉庫などが木造で設置されました。(1905年は、日露戦争で旅順が1月陥落し、戦勝ムードにあふれていました)
1907(明治40)年11月に支廠に昇格。
被服支廠は、軍服・軍靴・軍帽その他兵隊が身につける小物や付属品等を生産・修理・保管・供給する施設で、被服の大規模な製造・修理工場と保管供給を行う倉庫群がありました。生産施設は主に敷地北側に配置され、倉庫は南側に、管理・福利厚生関連施設は中央部に集約されていたそうです。
1913(大正2)年竣工の10〜13番倉庫4棟は、長辺94m高さ17mの巨大な鉄筋コンクリートでレンガ貼りで竣工しました。
戦争激化に伴い機能分散で木造建物が取り壊される建物疎開が実施され歯抜けのようになったといいます。原爆の爆風で屋根などに大きな損傷を受けたが火災は免れ、被爆直後は臨時救護所となったそうです。
※Wikipediaでは、陸軍被服廠広島出張所と云っています。
  1946(昭和21)年4月から広島高等師範学校。
1949(昭和24)年からは広島大学教養学部〜1953(昭和28)年まで鉄筋コンクリートの倉庫を使用。
県立広島第一高等女学校、1949年からは皆実高校。
1953(昭和28)年からは皆実高校と広島工業高校が木造建物の一部を修復して利用していました。
同(昭和28)年広島大学教養学部が移転してから1995(平成8)年まで倉庫4棟は日本通運出汐倉庫としての倉庫や広島大学の学生寮として利用されましたが、現在は空き家となっています。
2022年5月報道を見聞きしていると
『広島市に残る被爆建物で最大規模の“旧陸軍被服支廠”について、現存する4棟全てが事実上保存される見通しになった。
国が5月19日、所有する1棟を耐震補強すると明らかにした。
残り3棟を所有する広島県は2021年5月に耐震化を決めており、足並みがそろった。
一時は一部建物の解体論も出ていたが、広島の歴史を物語る貴重な建物の保存を求める被爆者らの声を踏まえた。』というような報道でした。
日露戦争期にかけて、陸軍糧秣廠宇品支廠 ・大阪砲兵工廠広島派出所・陸軍被服廠広島派出所が設けられ、今残っている広島陸軍被服支廠の建物は、1913(大正2)年に竣工したそうです。
日露戦争後、二つの出張所がそれぞれ兵器支廠 ・被服支廠 となり、1945(昭和20)年に被爆しました。
戦後一時期広島県庁と財務局、国税局、建設局等の出先機関庁舎として使われ、現在は広島県(1〜3号棟)・財務省(4棟)が管理しているそうですが利用はされていません。

資料でそのようなことを知り、2003年に撮影してこの頁を編集しました。
2008年(比治山の)陸軍墓地南端からこの旧陸軍被服支廠が見えましたので、撮影して更新しました。
2015年(被爆70年になり(現在隣の県工の)広島県立広島工業学校被爆職員生徒追悼碑を再び訪ねた時に、校門近くで旧被服支廠東面(爆心地側の逆方向です)が見えることを知り、撮影しました。
2016年になりましたが、この頁を更新しました。また、附近地図(に旧宇品線がわかるように点線で記し)頁下段に付けました。
2017年平和記念資料館を見学した時に目に留まった被服支廠の木造部分の原爆被災状況がわかる写真だったのです。この頁の下段に掲載しました。
2022年、ここ旧・広島陸軍被服支廠の建物群が保存されることになったようですが、ただ保存することで事足りるとはわたしは思わないのです。
如何にして、次の世代へ、そしてその次の世代に受け継いでいくのかの大きな問題があると思うのです。
“風化”ということばで、単に被爆の惨禍を受け継いくのかの問題は大きな課題であるのですから、物言わぬ建物で、被爆の惨禍をわかれと云われてもスルーするだけにならないことを(わたしは)願わずのはおられませんので敢えて記述しました。
2022.10.02.追記
   18.06.20,更新  07.06.01別冊編集  03.05.17裕・記編集

03.05.16.撮影
広島市南区出汐2-4-60

03.03.28.撮影
門を閉ざした状況の現在空き家です(北側から南側をみました)

03.05.16.撮影

03.05.16.撮影
原爆の爆風で曲がった鉄扉もあります 曲がった鉄扉は西側の面にしかありません(爆心地方向)

03.05.16.撮影
(奥に見える東西方向)被服支廠建物

06.12.16.撮影
(被服支廠建物を)南側から北側をみました)

08.12.11.撮影
    陸軍墓地より南方面を見ました               (旧・陸軍被服支廠建物)

15.07.02.撮影
大気の汚染でしょうか?妻壁の雨垂れの汚れ(黒さ)が2003年より長くなったように思いました

15.07.02.撮影
(爆心地側と反対側)東面をみました
  広島陸軍被服支廠:1945(昭和20)年11月11日
木造建物部分の原爆被災状況
平和記念資料館を見学した時、目に留まりました。 現在残っている倉庫部分ではなく、
火災を免れたと聞く木造部分の写真だったからです。(米軍によって撮影されたものでしょう)

17.04.27.平和記念資料館展示パネル撮影
写真:米国国立公文書館所蔵



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