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中区基町の広島護国神社前南側に現在も残されている「旧・中国軍管区地下通信室」です。 |
中国軍管区司令部防空作戦室は、空襲下でも指揮できるよう防空壕の機能を兼ねた半地下式鉄筋コンクリート造平屋の構造で造られました。
1945(昭和20)年6月12日本土決戦に備え広島師管区が中国軍管区に改称され、天皇に直隷し中国地方を管轄していました。
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分被爆(爆心地から≒700m)。
RC造の強固な構造体であったこと、爆心地南側方向に窓がなかったことで(側面には小窓がありました、また給気塔がありましたが)原爆に耐えました。
ただ、熱線による被害は限定的でしたが、小窓から入った衝撃波で人が吹き飛ばされ鼓膜が破れる者も出るなど多くの負傷者が出たそうです。 |
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廣島に原爆が投下された状況をここから他の司令部(福岡の西軍管区指令部と福山の歩兵41連隊)にはじめて連絡したのは軍人、軍属に混じって(交換手として)働いていた動員学徒の比治山高等女学校3年(14歳)岡ヨシエさんという方だったそうです。 |
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2017年5月30日朝NHKラジオニュースを聞いていて、
『(1945年8月6日)原爆が投下された際に「広島全滅。新型爆弾にやられました。」と第一報を伝えたとされる岡ヨシエさんが2017年5月19日悪性リンパ腫のため死去した。86歳だった。
戦後(被爆50年頃から)は、地下壕などで子供たちに被爆証言を続け、「日本の平和は戦争と原爆の犠牲者の上にある。戦争は絶対反対」などと訴えていた。親族によると、3月に入院し、治療を続けていた。』というような内容でしたので、追記しました。 |
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2003年5月8日に中国軍管区司令部の地下通信室の碑を「原爆記」の関連資料にと再度撮影に行ったのです。
地下通信室の碑を撮影していた時その姿を見ておられた平和学習引率?の先生に鍵を借りてきていますので中に入れますよと声をかけていただき、地下室の中に入り撮影しました。 |
17.05.31.更新 03.08.02.裕・記編集 |
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03.05.08.撮影 |
現在表記住所:広島市中区基町21 広島護国神社前 |
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03.05.08.撮影 |

03.05.08.撮影
原爆被災説明板
旧・中国軍管区司令部地下通信室 |
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01.12.07.撮影 |
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中国軍管区軍人軍属と(比治山高等女子学校)動員学徒の犠牲者の方々の慰霊碑 |
昭和54(1979)年5月13日建立 広島師友会 |
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司令部軍人・軍属 |
(103柱) |
比治山高女教師 |
2柱 |
比治山高女生徒 |
68柱 |
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