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中区基町のRCC中国放送北側緑地帯に(わずかに)残されている「廣島陸軍幼年學校跡」です。 |
陸軍幼年学校は、陸軍の中堅将校を育成する目的で、満13・14歳の少年を入校させ、3年間基礎的な教育訓練をした学校です。
卒業後は、陸軍士官学校を経て将校になりました。
体格検査と学科試験で選抜され、制服の襟に金星のマークがつけられたことから「星の生徒」と云われていたそうです。
1870(明治3)年横浜語学研究所を大阪兵学寮に編入、幼年学舎としたことが前身で、それ以後縷々変遷があり。
1896(明治29)年5月陸軍幼年学校条例廃止、代わって陸軍中央幼年学校条例および陸軍地方幼年学校条例が制定されました。 |
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1897 |
明治30年 |
広島陸軍地方幼年学校開校
仙台・東京(*陸軍中央幼年学校)・名古屋・大阪・広島・熊本の6箇所で開校 |
1920 |
大正9年 |
広島陸軍幼年学校に改称 |
1928 |
昭和3年 |
国際連盟「パリ不戦条約」で軍縮の一貫として広島陸軍幼年学校廃校 |
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*Wikipediaでは、1925(大正14)年5月1日に廃止としていますが、説明文を優先しました。 |
1936 |
昭和11年 |
再び開校 |
1945 |
昭和20年 |
敗戦までに49期3,345名の職業軍人になる少年を送り出しました |
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被爆当時は、幼年学校の少年達は、郡部(比婆郡山内東村:現・庄原市)、現・安芸高田市などに疎開していて人的被害はなかった※そうですが、ここの建物を使用していた第224師団司令部や各部隊の見習士官など約80名の方々が被爆死されたことは現在ここの地に立っても知る事は出来ません。 |
※関連頁:(庄原市浄光寺)広島陸軍幼年学校生徒慰霊碑 22.08.20.裕追記 |
資料をみていると、先日(2006年)解体された広島陸軍幼年学校炊事室は爆心地から≒1,340mですが、
いまも残されている広島陸軍幼年学校・門柱 爆心地から≒1,140m |
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(広島)陸軍幼年学校の門柱が残っている事は以前から知っていましたが、由来などに付いてはおじさんの「原爆記」の関連資料として調べて行くうちに知りました。 |
門柱の横に碑があることは2001年に訪ねたとき知りましたが2006年交流ウォークのときに改めて撮影し別頁に編集しました。また、府中町に再興された紀元2600年記念碑他も関連頁として編集しました。 |
2012年おじさんの「原爆記」も取り上げている平和記念資料館平成23年度企画展で「広島陸軍地方幼年学校」というパネルが展示してありました。
みると広島陸軍幼年学校のいまも残されている門柱と建物が写っていました。そして、それまで「広島陸軍幼年学校」と思っていましたが、“地方”が入っていました。資料を調べ直しこの頁を(わたしなりに)見直しました。
2014年のいまになりましたが、米軍撮影の被爆前、被爆後の画像も掲載し、この頁を再編集しました。
コロナ禍の2021年久しぶりに撮影していましたので、この頁を更新しました。 |
22.12.12.更新 14.08.20.再編集 03.08.02. 裕・記編集 |