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南区皆実町の皆実町緑地に建立されている「平和塔 (旧称:日清戦争凱旋碑)」です。
※平和塔の高さは、16mだそうです。 |
1895(明治28)年7月御幸通りに仮設の凱旋門が作られ帰還兵が日清戦争戦勝に沸く市民に迎えられ、
翌1896(明治29)年3月中国五県☆からの義援金でこの碑が建てられたそうです。
青銅の鷹は戦時中の供出をまぬがれています。
この碑は、宇品港へ向う出征兵士を見送り「タカの記念碑」※ともいわれたそうです。 |
爆心地より≒2,510m 被爆当時町名皆実町三丁目 |
1947(昭和22)年夏占領軍の目を気にして「日清戦争凱旋碑」の碑銘の上にセメントを塗り「平和塔」と改題されました。また、そのとき鷹を平和の鳩に擬するためか鋭い嘴を途中から切り落としたともいわれています。
1985(昭和60)年※3)広島市が像を補修したときに欠けていた嘴の先端も補修されたそうです。 |
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資料によっては、当時の廣島第5師団管内の出雲、石見、隠岐、備中、備後、安芸、周防、長門の8地方の有志とあるものもあります。 |
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金鵄(きんし)をあらわそうとしていたという説もあります。
日本の建国説話に出てくる金色のトビ。神武天皇の東征に際して、長髄彦(ながすねひこ)征伐の際に弓の先に止まって天皇の軍を助けたという。 |
※3) |
2024年2月28日“モノ語り文化遺産”でこの「平和塔」を取り上げ、記事の中に広島市の調査報告書について取り上げていましたので、参照すると
『戦後、老朽化した金鵄の落下が懸念されていました。付近住民の要望を受け、
広島市は1984(昭和49)年平和塔の安全調査と補強工事に着手しました。塔が建つ国有地を借り、翌(昭和50)年から皆実町緑地として管理しています。
ただ、1984(昭和49)年12月の報告書には、金鵄ではなく「鷹の像」と記しています。
「鷹の腹に穴が開き、鳥の巣がありました。鳥の糞は酸性なので青銅の腐食が進み、丸石に差し込んだ2本の脚でやっと立っていました」。
修復を依頼された大田鋳造所(西区)の大田喜穂社長(71)は当時のことを記憶しており、壊れた羽根やくちばし部分の新しいパーツを作って溶接。内部に樹脂を流し、ステンレスの支えを1本加えて補強したそうです。
金鵄は、広島城(塔建立時、第五師団の衛戍地でした)を背に、宇品港の方角を見据えていると指摘するのは、静岡県立美術館木下直之館長(70)で「碑の建設において最も重要なのは位置と向き」であると指摘しています。』24.02.28追記 |
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宇品御幸通り沿いのこの地に碑があることは以前近くで仕事をし横を通っていたので知っていましたが、由来歴史には無関心でした、軍都・廣島の関連を調べていくうち訪ね撮影してみようと思ったのです。
(13mの塔の上から)翼を広げた鷹が睨めつけて今にも襲いかかろうとしているように思ったのは平和の中で育ったわたしの思い過ぎでしょうが。
鷹とばかり思っていたのですが、交流ウォークの増田先生の話では、当初は金鵄をあらわそうとしていたという説を教わり、相当説得力ある話だとわたしは思いました。 |
2010年訪ねた時コンパクトデジカメを買替えていましたので、(一眼レフのようには行きませんが)鋭いくちばしが以前よりわかるのではとタカをアップして撮影してみました。また、1947(昭和22)年夏改題したという日付が裏面にありましたので撮影していました。いまになりましたが、再編集しました。 |
2015年久しぶりに訪ね撮影しましたので、この頁を更新しました。 |
15.10.03.更新 03.10.17裕・記編集 |