(被爆した建物)福屋百貨店

  中区胡町に開業している「福屋百貨店」です。
*1945(昭和20)年8月6日被爆した建物です。戦後改修工事が行われており、西側に増築したりしていますが。
福屋百貨店新館としてのこの建物は、1936(昭和11)年5月に着工し、1938(昭和13)年4月鉄骨鉄筋コンクリート造8階・搭屋2階、地下2階の建物として竣工しています。
SRC造であった事から被爆倒壊はまぬがれましが、原爆被災説明板の写真を見るとわかるように窓は吹き飛び内部は全焼したそうです。各階で仕事についていた方々の記録が無く何人の方々が死傷されたかわからないそうです。
爆心地から≒710m   (被爆当時町名も胡町)
福屋百貨店略沿革
1929 昭和4年 広島で唯一の百貨店として創業
1938 昭和13年 鉄骨鉄筋コンクリート造・地下2階地上8階搭屋2階として建てられました、
外装は淡黄色のテラコッタ(素焼)陶器を貼り、全館冷暖房設備がありました。
 
1944 昭和19年 建物のほとんどが軍関係などに接収されました。
また、軍の命令で(迷彩のため)外装全体を黒褐色の塗装で塗られました。
1945 昭和20年 8月6日 原爆での倒壊はまぬれたが、爆風と熱線で内部は全焼し外郭のみ残りました。
8月8日 臨時野戦病院として800人あまりの重傷者を運び込まれたそうです。
8月9日〜 2・3階を山口陸軍病院として軍・民問わず被爆者の治療に当ったそうです。
(おじさんの原爆記より)
8月17日〜 (血便が出る患者の急増で赤痢患者として)2・3階は伝染病舎になりました。
(急性放射能障害と明かになる一ヶ月ほど伝染病舎として使用されたそうです)
1946 昭和21年 1月〜 1階の一部で配給酒の立飲み営業をはじめたそうです。
被爆した福屋は、1951(昭和26)年第一次改修で被爆前の賑やかさを取戻し、1955(昭和30)年〜1985(昭和60)年に四次にわたって増改築されています。1972年3次増築で外装が全面的に改装されたそうです。
また、広電電車白島線は現在の通りから一筋西側(牛田行きバスが通る道)の通りを通っていた事も今(2003年)回資料を調べていくうちに(わたしは)知りました。
「おじさんの原爆記No9-2」を読んで被爆後2・3階が山口陸軍病院として機能した事を知り、また電車道を渡った西側・みずほ銀行の前に原爆被災説明板がある事を今(2003年)回資料を調べて知りました。原爆被災説明板を撮影に行ったときはみずほ銀行の前でしたが宝くじ売り場は残ったものの銀行業務は紙屋町の方に移っています。
今(2013)年通称・原爆資料館を久しぶりに見学したとき、原爆被災説明板の画像(川本俊雄氏北西側から撮影)とは違う角度(北々東とわたしは思った)から福屋百貨店を撮影した写真のパネルが展示されているのに目が留まり、この頁を再編集しようと思い(フラッシュを焚かずに)撮影しました。
林寿麿氏撮影の写真、外壁には迷彩を施したという黒褐色の塗装跡が残っているように思いました。
13.08.06.再編集   07.06.29更新  03.08.02裕・記編集
   関連頁:福屋百貨店・原爆被災説明板

03.04.28.撮影
広島市中区胡町6-26   (戦後増築部分を含めた福屋を北東から撮影しました)

03.04.28.原爆被災説明板の画像撮影
被爆後の福屋(手前) 後側の建物は中国新聞社屋      1945(昭和20)年9月 川本俊雄氏撮影

07.02.17.撮影
原爆被災説明板と現在の福屋百貨店(を西北から撮影しました)
被爆当時の福屋(使用状況)
8F 福屋百貨店・事務所
7F 広島貯金局
6F 中国海運局
5F 広島貯金局
4F 金属回収会社
3F 木材統制会社
2F 軍需管理局
1F 軍需管理局
B1F 福屋百貨店・雑炊食堂
B2F 陸軍通信隊
参考資料 広島市市民局国際平和推進部資料
ヒロシマ散歩 植野 浩氏著 

広島平和記念資料館展示の写真を13.04.08.撮影
広島市胡町 福屋百貨店 1945(昭和20)年秋 林寿麿氏撮影

13.08.03.撮影
福屋(裏面)を南東から撮影しました)

13.0806.撮影
北面を撮影しました左側(東側)は戦後増築部分です



被爆した建物・構築物」編


「建物など」編



広島ぶらり散歩へ
原爆記」 (八束 要 著)


inserted by FC2 system