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東区牛田東にある「広島女学院大学」を取り上げました。
*戦時中ここ女学院大学が(緊急時の)兵器部集合場所になっていたことをおじさんの原爆記で知り訪ねたのです。 |
おじさんが昭和20(1945)年に書き残した「原爆記(No1‐3)」にある陸軍兵器部修理所の(緊急時の)集合場所であった女学院。原爆記の資料として訪ねてみなくてはと思ったのです。
以前、牛田旭に住んでいたわたしは、女学院が坂道を登っていく途中にある事は知っていましたが、とんと女子関係の学校には関係無い人生でしたので行った事はありませんでした。
入口でガードマンの方に連絡していただき歴史資料館を見学する事が出来きました。
資料館係員の方にも説明していただきましたが、戦前の軍関係の施設の事、被爆後兵器修理部の集合場所となった施設などはわかりませんでした。 |
また、広島女学院高等女学校職員生徒慰霊碑は、現在中区上幟町の広島女学院中学高等学校に移設されており後日お参りさせていただき撮影しました。 |
03.08.02裕・記編集 |
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03.04.28撮影 |
牛田早稲田団地への坂道を上って行きます |

03.04.28撮影 |
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現在表示住所:広島市東区牛田東4-13‐1正門付近 (後ろに近代的な校舎が少し見えます) |
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1886 |
明治19年 |
米国南メソジスト監督教会の協力を得て、創立。 |
1932 |
昭和7年 |
広島女学院専門学校設立。 |
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戦前すでに幼稚園から専門学校までをもつ総合学園であったそうです。 |
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03.04.28撮影 |
学園の歴史がわかる資料が展示してある立派な歴史資料館 |

‘03.04.28撮影 |
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守衛所から連絡していただき見学させていただく |
学園年表・昭和20年生徒・学生・教職員352名が被爆死したとある |
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JR広島駅から約北北西に位置しています |
(番外)いまはハイキングコースとなっておりその案内板 |
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