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南区比治山公園に設置されている「比治山陸軍墓地」です。
※2019年3月比治山公園「平和の丘」第1期工事で入口礼拝堂が解体され、(新たに)屋根付きのエントランススペースが造られました。-別頁編集- |
1877(明治10)年の西南戦争以降太平洋戦争までの沖縄県を除く約5000柱が祀られると聞きます。
この墓地を訪れるたびに戦争で亡くなる方が二度と(ふたたび)出ないことを(わたしは)願い頭を垂れるのです。 |
爆心地から≒2,200m 被爆当時も比治山公園 |
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1944(昭和19)年陸軍墓地に高射砲陣地を作るため、陸軍と広島市が協議し、それまで広々と配置(現在の陸軍墓地、放射線影響研究所、NHKテレビ放送所を含む区域だったそうです)されていた個人墓を全て取り除いて、合同墓碑に合祀することとし、墓碑はこの近くの壕に埋め、遺骨も仮納骨堂に収納することとしていたそうですが、高射砲陣地はできたものの原爆被害と敗戦の混乱{占領軍がABCC(現在の放射線影響研究所)の陸軍墓地への移転を強行し掘り出された遺骨は南側の斜面の谷間に捨てられたそうです。
しかし、プレスコードで一切報道は許されなかったそうで、放置されて、遺骨も散乱していたままだったのを、1955年〜1960年(昭和30年〜35年)にかけて、立石吾一さん・村田安弘さん・岩田日出子さんたちの献身的な奉仕によって、今のように並べなおされたそうです。 |
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原爆関連の慰霊碑として陸軍墓地内に建立されている「船舶通信補充特別幹部候補生鎮魂之碑」(建立昭和57年)に手を合わせる為に2001年に訪ねたのですが、陸軍墓地の歴史について調べたのは2003(平成13)年になっておじさんの原爆記を掲載してからでした。
また、「中国管区司令部殉職追悼之碑」はそれ以後の何度か訪れたのですがわからずわたしがわかったのは2007年になりましたが頁を編集しました。
そして、2008年になって陸軍墓地の中に建立されている碑の頁を編集するために改めて個々の碑を撮影し、一覧画像をこの頁に編集しました。 |
19.05.24更新 04.01.10 裕・記編集 |
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03.09.24.撮影 |
広島市南区 比治山(ひじやま)公園 |
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この墓地は、1872(明治5)年、広島鎮台(後の旧陸軍第5師団)が設置される前年に、この地比治山に設置されました。その後、1877(明治10)年の西南戦争から1941〜1945(昭和16〜20)年の太平洋戦争まで、日本国内や海外において戦争により亡くなった多くの人々が葬られています。
墓地は、1944(昭和19)年に墓石の整理統合のため、その大部分が移設等集約されましたが、原子爆弾の投下により多大な被害を受けました。その後、終戦後の混乱期を経て、多くの人々の奉仕活動により今日の姿に再建されました。
この墓地には、約3,500基の墓地とともに、全国から多くの人々の遺骨が合葬されています。さらに、日清戦争、北清事変(義和団事件)及び第一次世界大戦により広島で亡くなった中国、フランスおよびドイツの人々も葬られています。 |
1995(平成7)年1月 広島市 |
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03.09.24.撮影 |

08.12.11.撮影 |

03.09.24.撮影 |
陸軍墓地の石碑 |
碑裏には、村田安弘・立石吾一・岩田日出子
のお名前が刻んでありました |
広島市が設置した説明板 |
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03.09.24.撮影 |
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礼拝堂内 |
比治山陸軍墓地略誌 比治山陸軍墓地保存協賛会
比治山陸軍墓誌 比治山旧陸軍墓碑復興会 |
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19.05.23.撮影 |
新たなエントランススペース(≒玄関空間)になっています |
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03.09.24.撮影 |
墓地を正面から見ました |
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07.03.14.撮影 |

07.03.14.撮影 |

03.09.24.撮影 |
陸軍軍人合葬之墓 |
明治29(1896)年7月29日建之
騎兵第五聯隊 |
不明墓碑 五百余柱 供養塔
昭和52(1977)年4月 |
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19.05.23.撮影 |
陸軍墓地より南方面を見る 遠く黄金山 旧・陸軍被服支廠 |
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