(広島城跡)崩れかけた石垣

  中区基町の広島城跡の北東の石垣にいまも残る崩れかけた石垣です。
1945(昭和20)年8月6日米軍投下の原爆で天守閣(爆心地から≒980m)は倒壊しましたが、この石垣部分は爆心地方向からは逆方向にあたりますので石垣の倒壊は免れています。
(公財)広島市文化財団の資料によると
『広島藩主・福島正則(在任:1600-1619)が広島城の無断修復を幕府にとがめられ取り壊した石垣の跡と考えられています。しかし幕府が指示したのは別の場所だった*ので、従わなかったとして改易(かいえき)となり広島を去ることになりました。』とこの崩れかけた石垣の解説があります。
幕府に求められたのは「本丸以外の修築分を破却」という条件に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置きました。これにより「破却が不十分である」と咎められることになりました。
福島正則(1561-1624)の大規模な城整備*と城下町作りは、徳川家康(1542-1616)を怒らせ、1609(慶長14)年正則に謹慎を言い渡しました。さらに(家康の死後)、1619(元和5)年には洪水による被害(本丸・二の丸・三の丸及び石垣等)の修復を幕府から武家諸法度を破った無届け改築ととがめられ、将軍・徳川秀忠(在任:1605-1623)の命で改易され信濃国川中島へ転封させられました。
広島城の整備だけではなく、領内の小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。
その中でも、(現在の大竹市)小方に1603(慶長8)年から亀居城の築城をはじめ1608(慶長13)年完成しましたが、幕府の圧力を察知してか、1611(慶長16)年取り壊すこともありました。
2003年におじさんの原爆記関連の頁を編集するので広島城を訪ねた時には、ここで取り上げた「崩れかけた石垣」のことを知らなかったわたしでした。
2013年広島城内を見学し、その時もらった広島城跡の案内図で、刻印がある石垣やここで取り上げた崩れかけた石垣が残されていることを知りました(正則が石垣を壊したことがあったことは知っていましたが場所は知らなかったのです)。
2016年になりましたが春に撮影していましたが、撮影画像をPC操作時失敗し失いましたので、9月になり改めで撮影して、この頁を編集しました。
16.09.28.裕・記編集
広島市中区基町21   広島城跡案内図を使用しています

16.09.15.撮影
北北西側石垣下から崩れかかった石垣をみました)

16.09.15.撮影

16.09.15.撮影
 

16.09.15.撮影
 (崩れかかった石垣部分を東側からみました)

16.09.15.撮影
 (南側から崩れかかっている石垣部分をみました)

16.09.15.撮影

16.09.15.撮影
(石垣の上西側から東側の崩れかかった部分をみました)



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