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安芸区上瀬野にある「(大山鍛冶)墓所」です。
※“大山刀鍛冶場跡・墓所”の説明板が、2014(平成26)年12月瀬野川流域郷土史懇談会解説で設置されました。 |
当初は大山峠近くで始めた鍛冶場だったようですが、二代重守のとき(1362年)下大山に下りて鍛冶を続けたそうです。その墓所が残っています。 |
〔建武年間1334年〕大山初代 守安-〔貞治年間1362年〕重守-〔応永年間1394年〕守重-〔永享年間1429〕則安-〔康正年間1455〕宗重-〔永正年間1506〕宗重-〔永禄年間1567〕宗重-〔天正年間1573〕宗重 |
案内していただいた大山鍛冶と云われる墓所はどのいしぶみが誰のものかはわかりませんでした。天正時代になって刀鍛冶としては終わりを告げたといわれる大山鍛冶の墓所です。
尼子経久(1458-1541)か大内義隆(1507-1551)の勢力範囲だったのかはこれから勉強の必要がありますが、天正時代と云えばもはや毛利元就(1497-1571)、毛利輝元(1553-1625)の勢力範囲だったことは明らかだと思うのです。中国地方を勢力圏にした毛利氏は、出雲安来地方のたたら吹きによる製鋼された玉鋼を使った刀鍛冶になっていったのかなと思ったりしましたが・・・ |
大山刀鍛冶場跡・墓所 |
平成26(2014)年12月 瀬野川流域郷土史懇談会 |
-刀鍛冶場-
大山では、鉄が産出され、燃料の松・雑木が無尽蔵にあり、水も豊富で、作刀する条件が揃っていましたので、建武(1334-1338)のころ、筑前の左守安が大山峠で作刀を始めました。
二代目重守のときこの地へ移転し、八代宗重まで、約二百六十年間、作刀しました。
大山鍛冶は、中世芸州を代表する刀工で、現在東京の国立博物館に所蔵されているものをはじめ二十一振りが確認されています。
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1987(昭和62)年、鍛冶場跡の田を発掘したところ、1mくらい下から多量の酸化した鉄と木炭層、ふいごの床に溜まった鉄滓(かなくそ)、火口の筒らしきものが出ております。 |
-墓所-
六十数基の墓は、二代重守の貞治年間(1362-1368)から文禄(1592-1596)までの歴史です。
なお、初代守安の墓所は、大山峠にあります。 |
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(大山刀鍛冶の)鍛冶場跡をみて、墓所の方に行こうと上って行った民家前にお年を召した女性が座っておられましたので、「大山鍛冶の墓所を拝見させていただけませんか?」と声をかけました。「そちらから回って行けますから」と許可いただきました。イノシシ除けの電線が張ってありましたので、避けるように回っていきました。
以前2008年に見たときも荒れた墓所のようでしたが、今回2022年は、西日本豪雨等の影響もあったのではと思うほど荒れた墓所になっているように(わたしは)感じましたが。 |
23.05.15.更新 09.01.30裕・記編集 |