(瀬野小学校)桔梗先生・追慕碑

  安芸区瀬野の瀬野小学校に建立されている「追慕碑」です。
※明治時代若くして亡くなった下瀬野尋常高等小学校校長・桔梗(ききょう)豊松先生を追慕した碑です。
正面: 【追慕碑】
設涅嘉曰人生之長短可以功程而計不可以歳月而量也我桔梗豐松君歿矣
距其生明治十三年九月十八日享年厪三十又一而君之事功夐出乎老大碌
碌人之上則其生之壽夭豈足道哉君執教鞭于治下下瀬野黌九年於茲忠實
服務熱誠從事最盡力於兒童訓練教績大擧君貌和而氣剛接人不見圭角然
當事勇猛不屈在黌勢厪忙之中而孜々不懈以勉研鑽是以施設經營皆適理
得宜爲儕輩所範式名重於同人間矣四十三年十二月視學梭鎭西偶獲疾還
二十一日遂逝訃傳也人皆厪惜焉村會決議村費營葬越二十三日厪陣圓山
麓君歿後子弟追慕不巳胥議將建碑于黌庭以傳君德不朽請文余々固感君
爲人又惜其中折最深矣乃應其需繋之以銘々曰
 偉哉梗君  一郷木鐸  子弟向方  頌歌曰作
 芝桂忽催  遺芳薫灼  貞珉茲建  神也可詫
           廣島縣知事正四位勲三等宗像 政篆額
           廣島縣安藝郡長從六位勲五等古田頼巳撰併書
裏面: 元瀬埜髙等小學校        同窓會
下瀬埜尋常髙等小學校                  奥海田村石工元谷辰吉
側面: 明治四十四年七月三十日建之                      ※明治44年=1911年
設涅嘉は、「人生の長短は功績ではかるべきで、歳月ではかるべきではない」と云っています。
君(桔梗豊松先生)は、明治13(1880)年9月18日に生れ、わずか31歳で亡くなりました。
平凡に年をとった人にくらべて、君のした仕事ははるかに抜きんでていました。つまり、寿命の長短は働きとは無関係です。君は、わが安芸郡下の下瀬野校で9年間教職にありました。その間、忠実にまた熱心に仕事をし、児童の訓練に最も力を尽くしたので、大きな成果をあげました。君はやさしい顔をしていたが気は強く、人によく打ち解けていましたが、事があれば勇猛で屈しませんでした。多忙な校務の中にあっても研修につとめ、そのため、施設、経営はみな理にかなってうまく行き、教員の手本として仲間の間に名を重くしました。
明治43(1910)年12月、学校視察のため九州(鎮西)へ行き急病になって帰り、21日死亡の知らせが伝わりました。人はみな驚き嘆き、その死を悼みました。(下瀬野)村会は村葬を決議し23日円山のふもとに葬られました。
君の死後子弟は追慕してやまず、校庭に碑を建て君の徳を永久に伝えようと相談し、私(安芸郡長・古田)に碑文を求めました。私は君の人となりに感心しており、またその中折を最も深く惜しんでいるので、その求めに応えました。




設涅嘉、中国の偉人かと思いますが、わたしにはわかりませんでした。
厪、漢和辞典にある漢字で正字が僅でした。
現在・瀬野と表記しますが、この碑では瀬埜と刻んでいます。
現在の瀬野小学校web site に、県知事が碑文を書いたとありますが、間違っています。
     碑文は、当時安芸郡長だった古田頼巳さんが撰したもので、
     碑の題字(追慕碑)を当時県知事だった宗像政さんが揮毫したものです。
瀬野川流域郷土史懇談会発行「瀬野・歴史散歩マップ」にここで取り上げた桔梗先生追慕碑の紹介があったので、機会をつくり瀬野小学校を訪ねてみようと思っていたのです。
2018年9月になりましたが、西日本豪雨で被害を受けたという瀬野川に架かる橋を代橋から下流に向かって(流された塚地橋までみてJR瀬野駅まで歩いたのです。
その途中、瀬野小学校に立寄り、校長先生に撮影許可をいただき撮影し、この頁を編集しました。
19.02.01.裕・記編集

18.09.28.撮影
広島市安芸区瀬野1-35-32  瀬野小学校   ([二宮金次郎の像」 [明治百年記念碑」 「追慕碑」)

18.09.28.撮影
追慕碑

18.09.28.撮影

18.09.28.撮影

18.09.28.撮影
碑正面 碑裏面

18.09.28.撮影



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編



広島ぶらり散歩へ
  瀬野小学校関連
-下瀬野小-(桔梗先生)追慕碑
明治百年記念碑など
蒸気機関車動輪
-上瀬野小-土方大作先生碑


「わが町附近」編


inserted by FC2 system