(上瀬野6)種田山頭火句碑

  安芸区上瀬野6に建立されている「種田山頭火句碑」です。
※刻まれた句は「一歩づつあらはれてくる朝の山」
ここでの句碑の建立前2003年に上瀬野2丁目に句碑が建立されています。
山頭火は俳友大山澄太(1899-1994)の広島市の家に数日逗留後、小雨のするなかを出立した。昭和8(1933)年9月19日である。この旅にも日記と俳句を残している。
『私は東へ急いだ、10時から12時まで海田市町乞(中略)午後は雨、合羽を着て歩いた。横しぶきには困った。2時半瀬野着、恰好な宿がないので、されに半里ばかり歩いて、一貫田という片田舎に泊まった。宿は本業が豆腐屋、アルコールなしのヤッコが味へる。
きょうの行程は五里。
所得は(銭三十銭、米四合)御馳走は(豆腐汁、素麺汁)  二五 中ノ上前が魚屋だからアラがダシ、豆腐はお手のもの。早くから寝た、どしゃぶりの音も夢うつゝ。
朝がひろがる豆腐屋のラッパがあちらでもこちらでも  (中略)
一歩づつあらはれてくる朝の山   (後略)
9月20日
曇、また降るだろう、彼岸入り、よい雨の瀬音。
歩いているうちに、はたして降りだした。しょうこりもなしに八本松は雨中行乞、2時近くなって西条着。(中略)今晩の御馳走(きゅうりなます、にざかな、いも)昼飯はぬき
・まことお彼岸入りの彼岸花 (後略)
平成15年9月、山頭火が泊まった家(久保田邸)の敷地内に、山頭火句碑を建立。
2011(平成23)年9月改訂 瀬野川流域郷土史懇話会  協賛:瀬野・中野地区青少年育成簡保団体
種田山頭火 (たねださんとうか:1882-1940)
俳人。山口県佐波郡(現・防府市)の大地主の家に生まれる。本名、正一。1892(明治25)年母が自殺。1904(明治37)年早大中退。
1916(大正5)年種田家破産、妻子を連れて熊本に移住。3年後離婚。
1924(大正13)年年末酒に酔って路面電車前に仁王立ち、熊本市内の報恩禅寺住職・望月義庵に預けられ寺男となる、出家得度。
俳句は1911(明治44)年「層雲」に寄稿、荻原井泉水(せいせんすい:1884-1976)門下となる。出家し托鉢生活をしながら自由律による句作をした。句集「草木塔」、日記紀行文集「愚を守る」など。
大山 澄太 (おおやますみた:1899-1994)
宗教家、俳人。 岡山県井原市出身。大阪貿易語学校卒業。
逓信省に入省し、逓信講習所教官、逓信事務官、内閣情報局嘱託、満州国郵政局講師などを務める。戦後愛媛県で著述、社会教育をおこなう。
上瀬野2丁目の説明板が2003年設置されたものであり、ここ瀬野6丁目は2011年設置で“改訂”とありましたので、山頭火の行動が広くとらえた説明文になっていたので、そういう旅だったのかとわかりました。
こちらの方が豆腐屋であったのだろうから石碑に刻まれた句を2丁目のものと違った句だったらと、残念だと思いました。
コロナ禍の2022年になりましたが、息子が旧西国街道沿いの“土方先生碑”と“馬頭観音”へ車で連れて来てくれたのです。
最初に“土方先生碑”を撮影するので、旧西国街道の方へ入った処で車を留めくれたので、碑の裏側から撮影することになり、正面へと廻って撮影する時、“↑山頭火句碑”の標識が目に入ったのです。
上瀬野2丁目で山頭火の句碑を2006年にみて頁を編集していましたので、ここ上瀬野6丁目にも建立されていたのかと思ったのです。
個人宅ですので門が閉まり碑近くまで行くことができませんでしたが、撮影画像をみると2丁目の句と同じ句でした。
 22.04.30.裕・記編集

22.04.17.撮影
広島市安芸区上瀬野6-2  (龍善寺東側国道2号根際)

22.04.17.撮影
(一歩づつあらはれてくる朝の山) 

22.04.17.撮影
朝がひろがる豆腐屋の ラッパがあちらでも こちらでも



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