正面: |
軍人軍馬慰霊碑 |
側面: |
昭和二十(1945)年四月二十一日午前十時頃神戸基点二八七Kニ七〇M(山口第一踏切と清水第七踏切の中間)付近で青森県(西津軽郡)驫木駅発門司行の軍用列車が瀬野駅に帰る途中の広島第一機関区瀬野支区後押機関車二両に猛スピードで追突脱線転覆の大惨事となり軍人四人軍馬八十五頭が死亡しました
謹んで哀悼の意を捧げます |
裏面: |
平成十四(2002)年四月二十一日(事故後五十七年)
中野 元瀬 建之(九十三才) |
※ |
上大山自治会の資料では、
『1945(昭和20)年4月21日17時25分、33両の8033列車が八本松を定時に出発。
門司駅に向かう途中の山陽本線の下大山付近で、軍人24名・軍馬98頭を乗せた列車が瀬野機関区の後押し機関車2両に猛スピードで追突脱線・転覆の大惨事、軍人4人軍馬85頭が亡くなった。』とあります。 |
* |
この慰霊碑を建立された93歳の中野さんはこの事故を目撃されたか瀬野機関区に務められていたかだったのではないのでしょうか。
戦時中で報道管制が敷かれていた時代背景から事故が公にならずに埋もれてしまうのではと考えられてこの慰霊碑を建立されたのではないのかとわたしは思ったのですが。 |