(広島国際学院大学で催された)完全復元伊能図全国巡回フロア展

  安芸区中野の広島国際学院大学で催された「完全復元伊能図全国巡回フロア展」です。 
『江戸時代の測量家・伊能忠敬が17年に及ぶ測量で作り上げた日本地図(通称伊能図)。
原本は火災で焼失していますが、日本、フランス、米国などに散逸していた副本や模写図を集め、畳約250枚大で再現し、これらを広島国際学院高城体育館フロアいっぱいに広げ、地図の上を自分の足で歩くことができる特性パネルに完全復元。
何よりも地図の正確さに驚き、自分が住んでいる場所はもちろん旅行などで訪れた各地に今でも残っている地名を地図の中で発見したり、まるで実際に伊能忠敬になったつもりで地図の上を歩き回る事が出来ます。』
ということで、ここ広島市広島国際学院大学では2011年11月4日〜11月6日催され、入場者3,500人だったそうです。
「完全復元伊能図全国巡回フロア展」は、2009年4月東京都江東区ではじまり、今(2014年)年も東京などで催され、来(2015)年も佐賀で催されるようです。
伊能忠敬(いのうただたか:1745-1818)
江戸中期の測量家。通称勘解由(かげゆ)。号東河。上総国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれる。母の死後、父の実家であった武射郡小堤の神保家に移り、18歳で下総国佐原の伊能家へ婿養子に入る。
酒造業を再興し、米の仲買いなどで産を築き、名主や村方後見として郷土のために尽くした。若いときから学問を好み、数学、地理、天文書に親しみ、1795(寛政7)年50歳の時隠居して江戸の深川黒江町(現・門前仲町)に居を構え、 幕府天文方高橋至時(当時32歳)に師事し天文学を学んだ。当時、緯度一度の里程数が定まっておらず、忠敬は長い南北距離の測量を企て、蝦夷地南東沿岸の測量を出願して官許を得た。
1800(寛政12)年(閏4月19日蝦夷地の測量に出発)期待したとおりの成果を収め、その後全国の測量へと発展し、1816(文化13)年に終了するまでに、10次にわたり、延べ旅行日数3736日、陸上測量距離4万3708km 、方位測定回数15万回という大事業となった。
細心な注意と測定点を十分に多く設ける厳密性を図った。忠敬の得た子午線1度の長さは28里2分(110.75km)で、現代の測定値と約1000分の1の誤差しかない。
伊能忠敬は第8回測量までの出発に当たっては、必ず江戸深川の富岡八幡に参詣して測量に旅立ったそうです。
  関連頁:(東京深川・富岡八幡宮)伊能忠敬像
中国地方の測量に関わったもの
第5次測量ルート 第7次測量ルート 第8次測量ルート
近畿・中国 九州第一次(中国地方内陸部) 九州第二次(中国地方内陸部)
1802(文化2)年〜1803(文化3)年 1809(文化6)年〜1811(文化8)年 1811(文化8)年〜1814(文11)年
1806(文化3)年1月18日岡山を出発し、瀬戸内海沿岸および瀬戸内海の島々を測量しました。測量にあたっては地元の協力も得て、瀬戸内海の島々を多くの舟と多くの人数で測量している様子を描いた絵巻『浦島測量之図』が残されています。1月28日に福山、2月5日に尾道、3月29日に広島に到着しました。
今(2014)年8月NHKニュースをみていると
『伊能忠敬が作成した日本地図で、北海道は全域が探検家・間宮林蔵(1780-1844)の測量に基づくとする分析を伊能忠敬研究会が発表した。
北海道は北岸部分が間宮、南岸は伊能の測量によるとされていたが、定説を覆す可能性が出てきた。
研究会は、伊能が1800年に北海道南岸を測量してつくった地図のデータと、約20年後に完成した全国地図の画像を比べた。2つの地図を重ね合わせると、南部の海岸線は最大数キロ程度ずれていたことが分かり、「同じ測量データを使ったとは考えにくい」(研究会)として間宮の寄与が浮かび上がった。
間宮は、伊能が北海道南岸を測量した際に弟子入りし、樺太探検を終えてから江戸の伊能宅を頻繁に訪れるなど親しい関係が続いていた。このため研究会は、伊能が調査した南岸を、再測量できる立場にあったのは間宮以外いなかったとみる。
研究会の渡辺一郎名誉代表は「伊能は最初に測量した北海道の結果には自信がなかったと日記に書いている。間宮の能力を評価して再測量を依頼したのではないか」と話している。
伊能の地図は火災で多くが失われたが、2001年に米国で最終版の写しが見つかった。研究会は発見資料と、日本の国立公文書館が所蔵する地図の電子データを比較し、分析した。』という事を聞きました。
  関連頁:間宮林蔵の墓
たとえ間宮林蔵のデーターを使用していたとしても、伊能がおこなった北海道での測量結果と照らし合わせ信頼していた間宮のデーターで修正した(修正することを指示していた)のであろうと思いました。
決して伊能の測量で全国地図が完成した偉業を否定するものではなくより正確さを求めた伊能であったのだろうとわたしは思いましたので中国地方に関することではありませんが、この事も取り上げました。
2011年に広島国際学院大学のこの高城体育館で催された「完全復元伊能図全国巡回フロア展」を見学しました。
どういう頁にするか迷ったものでしたが、未編集のまま2014年のいまになっていましたが、一応編集完としました。
 14.10.17.裕・記編集

11.11.05.撮影
広島市安芸区中野6-20-1  広島国際学院大学中野キャンパス高城体育館

11.11.05.撮影
(伊能)大図 1里=3寸6分(縮尺1/36,000)全214枚だそうです

11.11.05.撮影
(伊能)中図 1里=6分(縮尺1/216,000)全8枚

11.11.05.撮影
(伊能)小図 1里=3分(縮尺1/432,000)全3枚
2021年5月19日NHKニュース等を見ていると
伊能忠敬の日本地図「小図」3枚そろった副本 国内で2例目確認と報道していました。
『江戸時代に伊能忠敬と測量隊が作った日本地図のうち、「小図(しょうず)」と呼ばれる全体図の3枚そろった副本が新たに確認されました。
小図は正本が焼失し、3枚そろった副本は国内ではこれまで1例しか確認されていないということで、調査にあたった専門家は「すばらしい発見で、地図がどう仕立てられたのか研究が進むきっかけになる」と話しています。
この日本地図は、北九州市にある「ゼンリンミュージアム」に2020年7月篤志家から寄贈されたもので、縦が1.5mから2.5m、横が1.6mほどの3枚の紙に、北海道と東日本、西日本の地図が描かれています。
日本地図学会の専門部会が調査した結果、伊能忠敬と測量隊が作った日本地図のうち、43万2000分の1の縮尺で全体を3枚に収めた「小図」の副本と判断されました。
学会によると、伊能忠敬の日本地図は縮尺の異なる「大図」「中図」「小図」があり、幕府に提出した「正本」は明治時代にすべて焼失しています。
副本は正本と近い時期に作られたと考えられ、3枚がそろった小図の副本は国内ではこれまで、重要文化財に指定されている東京国立博物館の所蔵資料しか確認されていません。
今回見つかった資料には海岸線や地名などが手書きで記されているほか、東京国立博物館の資料にはない、どのように作ったかについての説明も書き込まれています。
日本地図学会地図史料・地図アーカイブ専門部会の鈴木純子主査は「伊能忠敬の測量隊が作ったとみられる実物感があり、驚がくしました。本当にすばらしい発見で、地図がどう仕立てられていったのかという研究が進んでいくきっかけになる」と話しています。』というよう内容でした。
21,05.28.追記
わが町は?とみようとしました
別図:安藝(國)をみてみました
展示してあった古地図
中野村がいまのわが町で、中野村井原が広島国際学院大学の所在地



「通り・街道など」編



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「わが町(旧・瀬野川町)附近」編


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