伊能忠敬がおこなった測量で中国地方が関わったもの

この頁では、伊能忠敬が中国地方で測量したものを取り上げました。
中国地方の測量に関わったもの
第5次測量ルート 第7次測量ルート 第8次測量ルート
近畿・中国 九州第一次(中国地方内陸部) 九州第二次(中国地方内陸部)
1802(文化2)年〜1803(文化3)年 1809(文化6)年〜1811(文化8)年 1811(文化8)年〜1814(文11)年
完全復元伊能図全国巡回フロア展で掲示されていた中国地方に関わる測量の説明板を撮影していました。
この頁では、その説明板を拡大して伊能の足跡がわかるようにと編集した頁です。。
14.10.17.裕・記編集
第5次測量ルート
1805(文化2)年2月25日品川を出発。忠敬60歳、隊員16名(出発時)。
東海道から紀伊半島沿岸、琵琶湖一周、瀬戸内海沿岸を測って岡山で越年。中国地方沿海部を島嶼部もふくめて測量した後東海道に戻り、1806(文化3)年11月15日帰着しました。
測量日数640日、天測221日。測量距離5,383km。
この測量では、忠敬が4月30日山口県の秋穂浦で発病し、松江まで病気療養が続いたため隊規が乱れたことで、帰国後門人(平山郡蔵、小坂寛平の2名)を破門するという悲痛なトラブルが起こりました。
第7次測量ルート
1809(文化6)年8月27日江戸校外王子村を出発。
御成(おなり)街道から中仙道を経て岐阜へ、次いで東海道、山陽道を経由小倉に進む。体制を整えて九州東南岸を測り、屋久島、種子島を目指したが風向きが悪いので断念。鹿児島半島と甑島、天草諸島など島嶼を測り、肥後を横断して帰路に着き府中(大分)で越年。
中国地方の内陸部や尾張三河地方と伊那谷を測り、甲州街道を経て1811(文化8)年5月9日新宿に帰着しました。
測量日数631日、天測301日。測量距離7,005km。
第8次測量ルート
1811(文化8)年11月25日品川を出発。
相模の大山神社から富士山麓を測って東海道に戻る。山陽道、長崎街道を経て鹿児島に直行。屋久島、種子島測量の後、北上して北九州各地を詳細に測り、壱岐・対馬・五島列島に側線を進めました。
九州を終わると中国地方内陸部(を測量しながら東に向かい、広島、松江、鳥取、津山、岡山を経由して、姫路で越年)、近畿北部を測り、義父から高山に出る。野麦峠から木曽谷を経て善光寺へ、飯山まで進んで斑点、松代、富岡、東松山を経由、1814(文化11)年5月22日、川越街道を板橋宿に帰着しました。
測量日数914日、天測323日。測量距離11,530km。
全測量を通して最大規模の測量旅行でした。途中五島列島で副隊長・坂部貞兵衛の病死に逢い、忠敬は声が出ないほど落胆したが、弟子たちに励まされ、憑かれたように内陸部に側線を伸ばしていきました。



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