広島城 (別名:在間城・鯉城)・概説

  中区基町に再建されている「広島城」です。
※もともとは、毛利輝元(1553-1625)が太田川河口の三角州に築いた平城だったのです。
戦国末期〜江戸期の城。太田川が分岐してできたデルタの平地に築かれた平城で、中国地方屈指の名城でした。
戦国大名毛利氏は、元就のとき安芸国吉田荘(広島県安芸高田市吉田町)の郡山城にいましたが、山間部であったため交通・戦略上の良地を求めて広島に進出したものです。
1589(天正17)年毛利輝元によって起工され、1592(文禄元)年に城郭の体裁が整い、1599(慶長4)年に完成しています。城下町の整備は普請奉行・穂田元清、二宮就辰のもと出雲の商人・平田屋惣右衛門らを招いて行われたと云います。
輝元は1591(天正19)年1月に吉田から広島に入城し、地名を「廣島」と名づけ、九ヶ国(安芸・備後・周防・長門・出雲・石見・隠岐・備中半国・伯耆3郡)を支配していましたが1600(慶長5)年関ヶ原の戦いの敗戦によって防長二ヶ国に減封されました。かわって福島正則が入りましたが、正則も1619(元和5)年無許可修築のかどで除封(川中島に改易)され、同(1619)年浅野長晟が入り12代継いで幕末に至りました。
天守閣は1931(昭和6)年国宝に指定されましたが、1945(昭和20)年8月6日(月)米軍投下の原爆で全壊しました。
現在の天守閣は、1958(昭和33)年春に以前と同じ形に外観復元されたものです。広島市中区基町(もとまち)21番 1号にあります。現在は(広島)中央公園の中に包括されています。
(ざいまじょう)
在間城:
築城前太田川三角州は「五ヶ庄(五箇所荘)」といわれ、鍛冶塚庄、平塚庄、在間庄、広瀬庄、白島(はこしま)庄からなっていて、そのうちの最大面積の在間庄を城池に選んで築城したからそう呼ばれるようになったそうです。
(りじょう)
鯉城:
語源は正確にはわかっていませんが、この付近がかつて己斐浦(こいのうら)と呼ばれており、己斐が鯉に通じることから、そう呼ばれるようになったという説。
また、明治以降になって呼ばれだしたとも云われ、明治6(1873)年明治新政府は廃城令を出し各地の城が取壊される中、神功皇后の三韓出兵の際鯉を献上した故事から鯉城と名付け天皇家の威光で城を残そうとしたという説もあります。
広島城築城以前(戦国期)の太田川デルタの呼称は「五ヶ」「五ヶ村」「五ヶ浦」と呼ばれていたようで、「五箇所」とは呼ばれていないと云われています。
(ひろしま)
廣島:
※毛利輝元が祖先・大江廣元の「廣」と城池選定に功があった福島大和守元長の「島」とを合わせたという説
※太田川に浮かぶ三角洲を漠然と表す、自然の地形としての「廣い島」の意味からとする説などもあります。
(江戸時代の)山縣氏覚書に『御家之廣之字を頭に被置、今度御馳走申上候福島之島与云字御取合廣島被名付候通被仰出ル■廣島与申来候・・・』とある事を根拠とした説であるようですが、時代が江戸まで下っていますので眉に唾付けて聞く説かと(わたしは)思っています。
毛利輝元が築城する前から皆が知っていた最大の島(≒廣い島)だったことから云われるようになったと考えるのが自然ではと思うのですが?
明治以降ここ広島城を中心とする基町地区は軍都・廣島の中枢地になっていました。
2003年になっておじさんの原爆記の関連資料として陸軍関連施設跡、記念碑などを撮影しました。その時この広島城に関することもあまりにも知らないことにハッとし、概説のこの頁も編集することにしたのです。 
2016年になり(お堀の東北に位置する)被爆したクスノキを撮影するとき、原爆で倒壊した広島城をみてきたのだろうな〜と思いましたので画像を追加しました。
16.09.27更新  03.05.11裕・編集

07.03.30.撮影
広島市中区基町21-1

03.04.07.撮影
櫻と広島城   (別の櫻と広島城の画像

03.05.08撮影
復元された天守閣の位置は昔の処という 広島城図の碑(北西の角に天守閣があった)

07.03.30撮影


























































































































































































































沿
























 





































03.08.22撮影

16.09.15.撮影
被爆したクスノキと広島城



「広島城附近」編


「古墳遺跡遺構など」編



広島ぶらり散歩へ
(広島城附近関連頁)
広島城(概説)
旧天守閣の礎石
広島城二の丸
(二の丸)馬屋跡、番所跡
  (現在は多家神社に移築されている)
広島城三の丸稲荷社社殿の一棟
中御門跡
裏御門跡
御門橋
崩れかけた石垣
刻印がある石垣
桜の池跡
広島城中堀
広島城暗渠跡
広島城・外掘、外濠、外郭
広島城・外堀石垣モニュメント1
広島城・外堀石垣モニュメント2
広島城・外堀石垣モニュメント3
広島城・お堀の取水口
(資料)歴代広島城主
     (原爆被災説明板)
 陸軍五師団兵営跡
 中国軍管区司令部の地下通信室
 広島城
 広島第二陸軍病院跡
     (軍都・廣島関連施設戦跡)
 大本営跡
 歩兵第十一聯隊跡
 廣島陸軍幼年學校跡
 中国軍管区・地下通信室
 聖 蹟
 部隊跡記念樹碑
 軍馬之碑
 野砲兵第五聯隊跡
 馬碑 (輜重兵第五聯隊跡)
 臨時帝国議会仮議事堂跡
     (被爆樹木)
 (広島城二の丸跡)ユーカリマルバヤナギ
 (広島城跡)クロガネモチ
 (堀北端RCC北西側)クスノキ
 (裁判所アパート南側)クスノキ


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