「港」の歌碑

  南区宇品海岸の宇品中央公園に建立されている「“港”の歌碑」です。
『港』の歌碑建立由来記
 私達が、小学校時代を連想するごとに。口ずさまれる国民唱歌の一つに「空も港も夜は晴れて・・・」の懐かしいメロディーがあります。
しかし、この歌がいつ、どこで、だれによって作られたものか忘れられ、いうなれば流浪の歌の運命をたどっていました。
ところが、昭和四十八(1973)年八月、全日本海員組合の宮城伸三が前任地博多から広島に赴任され、ある日、宇品の居酒屋で、たまたま同席した一老人から、この歌は宇品を歌ったものであることを聞かされました。
そこで、同氏は広島といえば、原爆の都市という暗いイメージを与えているが、この明るく生き生きとした情緒あふれる名曲を掘り起こし、広島のイメージ・チェンジをはかるならば、今後、広島のこども達の情操教育と、海事思想普及に貢献することができるだろうと考え、地元海運関係者や有志に呼びかけました。一同これに賛意を表し、いろいろ調査研究の結果、作詞は旗野十一郎、作曲は吉田信太(いづれも故人)場所は宇品暁橋(通称めがね橋)であることを確かめました。
その結果、数多くの人々の協力により、昭和五十(1975)年七月二十一日、海の記念日のよき日に地元小学生等の手によって除幕され、ただちにこの歌碑を広島県に寄贈されました。
こうして国民に親しまれました「港」の歌は流浪の旅を終え、生まれ故郷の宇品港に帰ることができました。
○ 歌碑は船の煙突をかたどった円筒型のコンクリート製(高さ三・九米)歌詞の四十八文字は、
  地元三小学校の四年生による一人一字の手書きであり「港」の字は港湾管理者宮沢県知事の自筆です。
○ 歌碑の周囲の「いかり」は呉市、内外運輸(株)の寄贈です。
○ 歌碑の裏面の「歌碑建立発起人一同」の文字は、
  建立の推進役をした全日本海員組合中国支部長の宮城伸三に書いてもらいました。
○ 建立関係の書類、除幕のアルバム、資料は末永く記念するため、ここに保存してありますから御閲覧下さい。
旗野 十一郎(はたの とりひこ:1850-1908)
越後国蒲原郡保田村(現:新潟県阿賀野市)生まれ。名は正樹。字は士良。号は桜平。保田小学校長。東京音楽学校の国語教師。
1896(明治29)年「港」国民唱歌となりました。
吉田信太(よしだ しんた:1870-1953)
音楽教師、作曲家。宮城県仙台市出身。東京音楽学校卒業。
吉田信太が広島県高等師範学校在職中の1895・1896(明治28・29)年頃の宇品港をイメージして作曲されたともいわれています。
軍港のイメージが強い宇品港が国民唱歌の舞台にもなっていたのかと知ったのです・・・わたしはもともと童謡に詳しいわけではありませんがこの「港」の歌を知らないと思っていたのです。
しかし今(2007)年10月宇品公民館主催の「みなとまち宇品散策」に参加して、この「港」の歌をみなさんが歌いだした時に、わたしもこのメロディー歌った事があったな〜〜と・・・歌詞はみましたが、みなさんと一緒に歌えたのでした。そして作曲の吉田信太は広島高等師範の教師として広島にゆかりがある方だと教えていただきました。
07.12.08更新   07.08.28再編集   03.08.09裕・記編集
敬称は略しました

07.10.21.撮影
広島市南区宇品海岸3-10 宇品中央公園
空も港も夜ははれて 
月に数ます舟の影 
艀の通いにぎやかに 
よせくる波もこがねなり


林なしたる帆柱に 花とみまかふ船印 
積み荷の歌のにぎはいて 
港はいつも 春なれや




































03.07.21.撮影
みなとの歌の碑



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