本因坊秀策

  昨(2003)年11月の三連休、家でゴロゴロではとまだ行ったことがない因島市の因島水軍城に行って
                                 尾道市の朱華園でラーメンでも食べるかと出掛けたのです。
※因島市は2006(平成18)年1月10日尾道市に編入されたことに伴い消滅してしまいました。
地図を見ると本因坊秀策の碑がある、NETで知合った猫の金太郎さん囲碁が大好きといっていたな〜〜
囲碁といえば九路盤でしかした事がない私でさえ詳しい経歴は知らねど本因坊秀策は知っているからと
撮影に立寄ってみようとなったのです。
(ほいんいんぼう しゅうさく)
本因坊 秀策:
(1829-1862)
(文政12〜文久2)
囲碁棋士。桑原輪三と母カメの次男として、1892年(江戸時代後期)に備後國(前:因島市外浦町、現:尾道市因島外浦町)に生まれました。幼名を虎次郎。
5歳で母に囲碁を教えられ、6歳のときには近郷に敵が無く、7歳のとき三原城主浅野公と対局してその棋力を認められ、竹原の宝泉寺住職葆真和尚に師事しました。その技の巧妙さに人々は驚き神童といったそうです。 9歳の冬に浅野公のすすめで江戸へ行き、本因坊家に入り本因坊丈和の弟子になります。11歳で初段の免許を得て翌年帰国、浅野公より5人扶持を賜り、15歳で4段の免許を得、名を秀策と改めました。17歳のときには12人扶持に増禄され、18歳の時大阪で幻庵因硯と対局し、世に言う「耳赤の妙手」(=因碩が形勢の良かった碁を秀策の打った妙手で形勢が一変し、動揺した因碩の耳が赤くなった)で結局秀策の3目勝ちとなったことは、囲碁界では有名な話だそうです。20歳で第14世本因坊跡目になり、丈和の娘花と結婚。 21歳で御城碁に初出仕し、この時から13年間御城碁において19連勝で負けることがなかった。しかし、34歳という若さで他界(この時代流行したコレラでといわれているようです)しました。
07.05.23住所訂正   04.01.11裕・記編集

03.11.23撮影

03.11.23撮影

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因島石切神社 三連休というのに・・・ 説明板 本因坊秀策碑と神社

03.11.23撮影

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本因坊秀策碑 本因坊秀策碑 傍の本因坊秀策記念館

03.11.23撮影

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本因坊秀策の墓 やっと解かった本因坊秀策の墓 本因坊秀策の墓 本因坊秀策の墓を後ろからも・・



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