(海田町)ふるさと館(概説)
  広島県安芸郡海田町畝に建設されている「海田町ふるさと館」です。
住所:広島県安芸郡海田町畝2-10-20
海田町の説明によると『「海田町ふるさと館」では、
1) 歴史・考古・民俗・美術・工芸等の資料の収集・保管・展示・調査研究及び教育普及活動等の事業を通じて、町民の文化に対する知識や教養の向上を図る
2) 企画展示室・研修室を、町民の学習及び研修の場とし、活用の促進を図る
以上2点の運営方針のもとに、海田町の歴史を紹介した「常設展示」のほか、年間約5本の当館主催「企画展示」を開催しています。また、平成14(2002)年度より、町内在住者等の作品発表の場として「ギャラリー展」を開催します。』と紹介しています。
海田町(国策の町村合併により広島市と合併する事になるのでしょうが※1)に“ふるさと館”という郷土資料館がある事は前から知っていたのですが行った事はありませんでした。
このふるさと館の裏山に当る日浦山の事を聞いて登ってみる為の資料があるかも知れないと思ったからでした(立派なパンフレットを頂きました)。
資料館としては一般的なものと思いましたが、海田町が綿の産地で、葡萄の産地であった事をスイッチを押して観た「海田物語劇場」という映像で知りました。
あのオリンピック金メダルはじめて獲得した織田幹雄さんの出身地なので、僅かではあるのですが遺品が展示されています。図書コーナーもあり、そこで“ヒロシマの碑”という本を見つけ海田町民ではなくても貸出せるという事で借りました。
(わたしが知らなかっただけですが)「歴史講演会」なども開催されており文化発信基地の機能をもっているようです。
ふるさと館の裏手は公園として整備されており、大クスがあり、被爆50周年記念碑の横に移設されたトーチカがあったり、復元された竪穴式住居、復元埴輪等もあります。2003年撮影してこの頁を編集しました。
2004(平成16)年8月織田幹雄生誕100年展を記念した「織田幹雄展」が開かれ金メダルが展示されるので行ってみました。アムステルダム五輪で獲得した金メダルは現在は東京・秩父宮記念スポーツ博物館に保管してあり、五輪後に織田氏が帰郷して以来、76年ぶりとなる「里帰り」を果たしたということだそうで、織田幹雄関連頁を追記しましたす。
2014年報道でこのふるさと館を解体して保育園を立てるという町の方針を知りました。
1995(平成7)年建設のこのふるさと館を解体し、築40年を超える老朽化問題などがある畝保育所の移転地にしようと(海田町)行政側が提案した「ふるさと館を廃止するための条例案」が、今(2014)年3月定例町議会で否決されということを報道で見聞きしました。
入館者もあまり多くないのが現状のふるさと館なので、西国街道沿いの千葉家住宅周辺に移転すれば、周囲の歴史資源を生かした新たな回遊性や賑わいの創出にもつながり、より多くの人々に町の歴史や文化を知っていただけると考えています。』ということもあったようですが、
確かにJR海田市駅から行こうとすれば交通的に不便でありますが、町内循環コミュニティバスの利便性を良くし、展示内容にも工夫を加え何度でも足を運ぼうと思えるふるさと館にすることも必要ではないのかと(わたしは)思います。
いま解体するのは資料館としての資源としてもったいない建物だと(町外者のわたしですが)議会側に賛同しています。
2015年12月9日中國新聞で、『海田町の新保育所は海田町幸に3ヵ所統合した保育所を造る。
--(ふるさと館を解体してそこに)畝保育所を単独で移転させる計画でしたが、2013年12月に町議会が関連議案を否決したことで、3保育所を統合する方針に町は転換した---つまりこの「ふるさと館」は残すということでしょう。』
17.02.08.更新   03.02.09裕・記編集

03.02.07撮影

03.02.07撮影

03.02.07撮影

03.02.07撮影
(海田町)ふるさと館 裏手よりふるさと館をみる ふるさと館1F展示室
映像「海田物語劇場』を見る
ふるさと館2F展示室
織田幹雄関係の資料
 17.02.08.更新      

03.02.07撮影

03.02.11撮影

03.02.07撮影
(広島県天然記念物)
観音免のクスノキ
海田観音免のクスノキ説明板 (ふるさと館裏手)
 トーチカ
原爆被爆50周年記念碑
17.02.08.再編集 03.02.13編集 15.12.08.再編集
織田幹雄展にて

04.08.05撮影

04.08.05撮影
金メダル展示ケース 織田幹雄獲得金メダル 織田幹雄愛用のシューズ等 世界記録章、メダルなど
敬称は略しました
かいた   
海田町
広島県南西部、安芸(あき)郡にある町。
1956(昭和31)年海田市(かいたいち)、東海田の2町が合併して成立。人口3万0596人(H14年12月末)。広島市の東郊にあたる。中心の海田市は海田湾に注ぐ瀬野川河口にあり、山陽道の宿場町、市場町であった。交通の要地で、JRの山陽本線と呉線、国道の2号と31号が分岐する。河口の干拓地ではブドウ作りが盛んであったが、今日では高校、警察署、陸上自衛隊第13師団などの公共施設、広島ガスなどの工場が進出している。

合併についての
住民投票
『海田町と広島市との合併について町民の意思を問う住民投票条例』に基づき2004(平成16)年8月22日に住民投票が実施され、投票率57.91% 賛成4437票、反対8418票で単独町政維持という住民の意思が示されました。
クスノキ
Cinnamomum Camphora
クスノキ科の常緑大高木樹皮は、暗い灰褐色で細かく縦裂する。 葉は互生、深緑色で光沢があり、枝や葉に芳香(樟脳の香)を有す。葉脈は、3つに分かれる。古くから各地に庭園樹、街路樹などとして植えられる。材は建築、家具、楽器、彫刻などに利用。樟脳の採取もされた。分布 本州(関東以西)、四国、九州、台湾、中国
トーチカ ロシア語で点の意味。1930年代前半にソ連軍が日本軍の侵入に対抗して満州との国境線に沿って配備した鉄筋コンクリート製の恒久的火器陣地。日本軍ではこれを特種陣地と称した。厚さ1.5〜2.5mのコンクリート壁の内部に機関銃、火砲、高射砲、観測器材を収容し、独立または複数の連繋射撃によって火力の拠点とし、また逆襲攻撃の基点とする。大きな司令トーチカは数階建ての建物内に指揮設備、通信設備、居住設備が整い、周辺のトーチカ群との間を地下道で結び、鉄条網、地雷原との組合せで強力な要塞となる。
その後、日中戦争の中国軍、ヨーロッパ戦線の独・仏軍、太平洋戦線の日本軍がトーチカを構築している。トーチカ攻撃には、大規模な砲爆撃が正攻法で、近距離からの銃眼射撃、爆薬の投げ込み、火炎放射器による攻撃も効力がある。



「資料館など」編



広島ぶらり散歩へ
「わが町(旧・瀬野川町)附近」編


inserted by FC2 system