おだ みきお
織田幹雄


  この頁では日本人最初の金メダリスト「織田幹雄」関連資料などを取り上げました。
織田幹雄 1905-1998 (明治38年-平成10年)
日本の代表的陸上競技選手。広島県安芸郡海田町(当時海田市町)出身、早稲田大学商学部卒業。(広島県名誉県民)。
1924(大正13)年広島一中時代のオリンピック・パリ大会三段跳びで6位入賞。
1925(大正14)年に早稲田大学進学、当時「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」という競技名を『三段跳び』と訳しました。
1928(昭和3)年のオリンピック・アムステルダム大会日本チーム主将(参加選手43名)として参加、8月2日三段跳び決勝1回目15m13cm、2回目15m21cmの記録で米国のケーシーを4cm抑えて日本人として初めてオリンピックの金メダルを獲得しました。
1931(昭和6)年には15m58cmの当時世界新記録をつくり、三段跳び王国日本の先駆者となりました。
朝日新聞本社運動部長退任後、早稲田大学教授、国際陸連技術委員を歴任。東京オリンピックでは陸上競技の選手強化委員長を務めました。日本陸上競技連盟名誉会長。1988(昭和63)年文化功労者。
アムステルダムの大会組織委員会が日本の優勝を予想していなかったので表彰式で掲げる日本国旗の準備をしていなかった。その為に、日本チームが入場式で掲げる為に持っていた(特大の)国旗を揚げたという説と日本の役員が、もし織田が優勝したら、タオルの替りに選手自身をくるんであげられるように、大型の日章旗を持参していた。同じ三段跳びで4位に入賞した南部忠平が、金メダルにすっかり興奮して、役員から渡された大型の日章旗を組織委員会に頼み込んで揚げてもらった、という説がありますがいずれにしろ日本初の快挙だったのですから・・・
おまけというか、演奏された『君が代』も、音楽隊がほとんど練習していなかったので、おかしなメロディーだったそうです。
国立競技場4コーナーの白いポールは『織田(記念)ポール』と呼ばれ織田幹雄の栄誉を讃えて、優勝記録だった15m21cmの長さのポールだそうです。
国立競技場は2014年5月に閉鎖され、競技場は解体されましたので織田ポールも撤去されていますが、新国立競技場完成時には移設されるそうです。
(16.03.20.追記)
英語では現在は「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ(hop, step, and jump)」といわずに、「トリプルジャンプ(triple jump)」といわれています。
1967(昭和42)年11月12日第1回織田幹雄記念賞陸上競技大会、広島県営陸上競技場で開催され以後続けられ、今(2004)年4月29日第38回織田幹雄記念国際陸上競技大会として広島県広域公園で開催されました。第42回が2008年4月29日開催されました。
08.08.25追記
織田幹雄さんが広島県出身者である事は知っていましたが、海田町の出身であったことはここ海田町ふるさと館に展示されている関連資料を読んで(わたしは)知りました。
2004年になって織田幹雄生誕百年展で、金メダルをみましたが、金メッキが剥げているようにわたしにはみえました。
04.09.06追記   03.02.09裕・編集
敬称略しました

03.02.07撮影
広島県安芸郡海田町畝2-10-20
海田町出身日本初の金メダリスト織田幹雄氏の展示海田町名誉町民であるとともに広島県名誉県民でもあります。
織田幹雄生誕100年展「織田幹雄展」にて・・・

04.08.05撮影
黒のユニフォームが東京オリンピックの時の公式ユニフォームとか・・・    金メダル展示ケース
金メダル
金メッキが色あせた?剥げている?ようでした
三段跳びの記録フィルムがみられました。

04.08.05撮影
スパイクシューズ  パリ国際学生大会メダル  東京オリンピック大会監督章   織田賞陸上競技大会参加賞

04.08.05撮影



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