中国軍管区司令部・第59軍司令部跡ほか・原爆被災説明板

  中区基町の広島城公園に広島市によって建立されている「陸軍五師団兵営跡・原爆被災説明板」です。
※新しい碑の碑銘が「中国軍管区司令部・第59軍司令部跡ほか・原爆被災説明板」になっています。
2003年この碑を撮影し、2016年撮影した時までは「陸軍五師団兵営跡」でしたが、(呼称の見直しがされ)
2019年みた時、「中国軍管区司令部・第59軍司令部跡ほか」となっていましたので、この頁の題も変更しました。
(新しくなった)中国軍管区司令部・第59軍司令部跡ほか・原爆被災説明板
爆心地から約400〜1,300m
本土決戦に備え、1945(昭和20)年6月には広島城本丸に中国軍管区司令部・第59軍司令部が置かれ、広島城内堀の外周には、隷下の補充隊や師団司令部などが存在していた。各部隊の建物は1945(昭和20)年8月6日、原爆の爆風により瞬時に崩壊し、火災に包まれて灰燼(じん)に帰した。
広島城とその周辺部 撮影・米軍
(以前の)陸軍五師団兵営跡・原爆被災説明    爆心地から約400〜1,2001m
広島城天守閣を取り囲むように並んでいた司令部や各部隊の木造2階建兵舎など、すべての建物は1945(昭和20)年8月6日、原爆により瞬時に崩壊し、火災に包まれて灰燼に帰しました。
倒壊した建物の廃材が散乱した中に、兵士や軍馬が投げ出され、司令部をはじめ歩兵・砲兵・輜重隊の約1万人の兵士が死傷しました。
広島城とその周辺部 撮影・米軍
中国軍管区: 1945(昭和20)年大本営は中国地方を第15方面軍司令部が兼ねた中部軍管区司令部の管轄下に入れ、同(昭和20)年6月12日に広島師管区(留守第5師団が管轄)司令部を中国軍管区司令部と改称して第59軍司令官藤井洋治中将が指揮し、天皇に直隷し中国地方の軍政を統括しました。
第五師団: 1873(明治6)年に設置された広島鎮台を母体に1888(明治21)年5月14日に編成され、衛戍地を広島とし、第5師管を管轄しました。
1940(昭和15)年10月12日に大本営直轄となりました。
1943(昭和18)年1月には第19軍隷下となり、1945(昭和20)年2月28日第19軍は廃止され、第2軍隷下となりました。
明治時代になって広島城附近(広島開基の地ということから基町と呼ばれる)は、藩政時代の政治軍事拠点から陸軍の拠点として軍事施設が整備されていき急速にその姿を変えていったのです。
1945(昭和20)年8月6日(月)8時15分米軍投下の原子爆弾で城郭建築は悉く倒壊または焼失し、同時に軍事施設の大半が壊滅しました。軍関係者のみならず多くの動員学徒もその犠牲になりました。
2004年に撮影しこの頁を編集しました。
2011年御門橋が改修工事をしていましたが、この原爆被災板と御門橋の位置関係がわかるなと撮影しました。
御門橋を渡る前にこの辺りの原爆による惨禍の極々わずかですがわかりますので、みていただければとおせっかいな言葉を添えて再編集しました。
2016年に見たとき2003年撮影当時と変わっていませんでしたが、別構図で撮影していました。
2019年地下通信室・原爆被災説明版の画像をもう少し撮影しようとここ広島城跡に来たので、この陸軍五師団兵営跡・原爆被災説明も観たのです。すると新しい板になっていて、碑銘も変わっていましたので撮影し、このページを再編集しました。
19.03.04,.再編集   03.05.11裕・編集

03.05.08.撮影
(原爆被災説明板の)米軍撮影の画像を使用しています

04.05.15.撮影
広島市中区基町21  (広島城お堀外南やや西側)

11.12.05.撮影
広島城御門橋(改修工事中) と 陸軍五師団兵営跡・原爆被災説明板

16.09.15.撮影
(改修後の)広島城御門橋 と 陸軍五師団兵営跡・原爆被災説明板

16.09.15.撮影
(南側からみたところが正面です)

16.09.15.撮影
(碑の後側をみました)

19.02.24.撮影
原爆被災説明板が新しくなっていました

19.02.24.撮影
広島城御門橋(改修工事中) と 陸軍五師団兵営跡・原爆被災説明板
(画像の構図は変わっていませんが、碑銘が変わる、距離も変更がありました)碑文は上記

19.02.24.撮影



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(広島城附近の原爆被災説明板)
広島城原爆被災説明板
中国軍管区司令部・第59軍司令部跡ほか・原爆被災説明板
中国軍管区司令部の地下通信室・原爆被災説明板


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