「室町水墨画の世界」講演と豆知識
  室町水墨画の世界〜始まりから雪舟まで ;H15年2月11日 講師:菅村亨氏(広島大学大学院助教授) 内容:室町時代の巨匠雪舟に代表される、日本の水墨画の歴史を解説します。
とあったのです、近くでこんな講演会があることなどまったく知りませんでした。隣町とはいえどなたでも参加できる(しかも無料で)となれば行かない手はないと聴講に行きました。雪舟は昔仕事をしたことがある地、島根県益田市があの故竹下首相が行った‘ふるさと創生1億円事業’で雪舟の絵(国の重要文化財「益田兼堯像」)を買ったということで興味を持った事があったからです。
今回の講演会 菅村氏は聴講する人に伝えなくてはという思いが沢山あったのでしょう予定時間を大幅にオーバーしまた、水墨画もですが文化・宗教などほとんどの事を中国から学んできたということを改めて思ったのでした。“自画自賛”という言葉の由来を詩画軸山水画から出た事を知りました、芸術にとんと縁がない私ですがこれほどの講演を無料で聴講できる機会があったのかと感謝した次第でした。
 03.02.14裕・記編集
概 論
水墨画とは
水暈(うん)墨章−水による暈(ぼか)しで、墨の濃淡が章(あらわ)れる。
筆墨の調和墨の変化にあわせて筆勢の強弱の変化が表れる。
 原則的には墨の濃淡と筆勢を基本とする単色がである。
しかし実際には、着色の頂相や花鳥画、淡彩の山水画などのように、厳密には彩色がであっても,水墨画の技法が基礎となっている墨主色従の絵画様式も基本的な意味で水墨画として取り扱う。
 日本の水墨画は、中国・南宋、元の水墨画を規範として始まった。武家文化の精神的支柱であった禅の文化と深い関わりをもつ。
水墨画画題
道釈人物 禅宗の祖師・・・・釈迦、達磨
散聖・・・・寒山、拾得
高士、仙人
花鳥・草木 四君子・・・蘭・菊・梅・竹
歳寒三友・・・松・竹・梅
山水
山水花鳥
歴   史

日本絵画変遷
概念図
初期水墨画
 
(13世紀後半−14世紀末)
道釈人物画を中心とする時代
直輸入の時代
可 翁  かおう
黙庵霊淵  もくあんれいえん
鉄舟徳済  てっしゅうとくさい
右慧愚谿
良詮
  りょうせん
吉山明兆  
きちざんみんちょう
室町水墨画
 (15世紀−16世紀前半)
山水画を中心とする時代
詩画軸
如 拙  じょせつ
梵 芳
周 文  
しゅうぶん
雪舟等楊  
せっしゅうとうよう
賢江祥啓
小栗宗湛
狩野正信
能阿弥
芸阿弥
相阿弥
解 説
かまくらじだい
鎌倉時代
  1185(文治1)年源頼朝が守護・地頭の補任を勅許され、1192(建久3)年征夷大将軍に任命されたときより、1333年(元弘3・正慶2)年幕府が滅亡したときまでの、鎌倉に幕府が置かれた時代をいう。
武家の棟梁である頼朝は武士を率いて政権を打ち立てたが、頼朝の死後、北条氏が実権を握り、執権政治を行った。1221(承久3)年後鳥羽上皇は倒幕の兵を上げたが大敗した(承久の乱)。以後、幕府は安定期を迎え、蒙古襲来の危機も乗り越えた。しかし北条一門の専制に対する不満を結集した後醍醐天皇は1324(正中1)年倒幕を計画、反幕の武士が各地で蜂起、1233年足利尊氏、新田義貞らの活躍で幕府は滅んだ。
文化的には、禅宗をはじめとする宋元文化が輸入され武家文化が発達、また法然、親鸞、一遍らによる新仏教が興隆した。
なんぼくちょうじだい
南北朝時代
  1336年から1392年まで半世紀余りをさす時代概念。ときとしては1333年から1335年の建武政権期をこれに含ませる。
1335(建武2)年足利尊氏は、北条時行の挙兵を討伐したのち、鎌倉において建武政権に反旗を翻し、新田義貞軍を破って入京、いったん敗れて西走したが、翌年再入京、持明院統の光明天皇を擁立した。後醍醐天皇は吉野に逃れ、朝廷を開設したため、京都の朝廷を北朝、吉野の朝廷を南朝とよび、両朝併立の南北朝時代が始まった。
以後両朝による抗争が繰り広げられ、日本歴史上でも前例のない動乱が半世紀にわたって続いた。1392(元中9・明徳3)年足利義満が武家勢力の統合を背景として、両朝合体という名の、事実上の南朝解消に成功し、南北朝時代は終わった。
むろまちじだい
室町時代
  1336(延元1・建武3)年足利尊氏が幕府を開いたときから、1573(天正1)年将軍足利義昭が織田信長によって追放されたときまでをさす。
将軍家の家名によって足利時代とよぶこともある。三代将軍義満は、武家、公家、寺社諸支配層の権力を集中し、最盛期をつくった。しかし以後、将軍家、有力守護大名のなかで後継争いなどの内紛がおこり、1467年(応仁1)から応仁の乱がおこった。この乱によって幕府の権威は失墜し、戦国時代を迎えた。文化の面では禅風の強い影響を受けた北山・東山文化が出現した。
あづちももやまじだい
安土桃山時代
  織田信長と豊臣秀吉とがそれぞれ政権を掌握した時代の名称。
安土時代の呼称は、信長が1576年(天正4)に美濃(岐阜県)岐阜城から近江(滋賀県)安土城に本拠を移して天下統一事業を推進したことにちなむが、桃山時代の呼称は、秀吉の晩年の居城である山城(京都府)伏見の地がのちに桃山ともよばれるようになったことに基づくもので、秀吉当時における呼称ではない。かつ政治の中心は、大阪城にあったのであるから、政権の根拠地という点からいえば、「大坂時代」とでもいうのが妥当であろうが、「桃山」には当代の華麗な文化を連想するにふさわしい語感もあって、まず文化史上で時代呼称として定着し、政治史上でも一般に用いられているのである。
すいぼくが
水墨画
  東洋絵画の一形式。中国を中心に朝鮮および日本など東アジア文化圏で流行し、独特の発展をみた。墨を主顔料に、これの濃淡や潤渇の度合いによって、人物や動物、山川草木など森羅万象を描き出そうとしたもので、淡彩を施す場合もあるが、基本的にはすべての形象が墨一式で表現された抽象的かつ象徴的な絵画をいう。
彩色しない、墨を基調にした絵画、いわゆる墨絵には、水墨画とは別に、白描画とよばれる画法があり、これは墨の描線を主にした輪郭線本位の絵画で、中国では漢、魏以来の長い伝統をもつ。水墨画は、この白描画の描線の発達とも複雑に関係しながら唐時代(618〜907)に発生。墨の濃淡やぼかしによって面的表現を目ざしたところに特色がある。
はくびょうが
白描画

  墨の筆線を主体として描かれた絵画。墨の面的な表現を主とする「水墨画」とは区別される。
彩色を施す前の下絵や、粉本、素描なども含まれるが、本格的な白描画は線描によって完成された作品である。中国では古く「白画」とよばれ、唐の呉道玄によって完成されたのち一時衰退していたが、北宋末には李公麟によって復興された。日本においてもその伝統は奈良時代にまでさかのぼり、『麻布菩薩像』(正倉院宝物)などの遺品が残されているが、その技法は平安時代を通じて画家の基礎的技術として継承された。平安時代(12世紀)の『鳥獣人物戯画』(京都・高山寺)は、このような伝統のうえに生まれたものである。
かんが
漢画
 おもに中国の宋、元、明、清の絵画に倣って制作された日本絵画。
鎌倉時代後期、宋・元絵画の舶載が盛んになったが、これら新画風に倣った作品が日本でも制作されるようになった。南北朝・室町時代には幕府および禅林を中心に、この種の絵画が隆盛を誇った。ただし当時はこのような画風の絵画を「唐絵」とよんでいた。
現在では、江戸時代になって用いられた「漢画」という呼称が一般的である。漢画は以後、「大和絵」とともに日本絵画における二大潮流となり、相互に対立、融合しあい、近世絵画を実り多いものとした。室町時代におこり、江戸時代の画壇の主流であった狩野派は漢画系の画系である。なお、江戸中期に明・清絵画の影響のもとに生まれた南画(文人画)も、当時は漢画とよばれていた。
やまとえ
大和絵
(倭絵)
 純日本的な題材と様式をもつ世俗画の総称。
中国絵画ないし日本の中国画風の世俗的総称である唐絵に対する語。平安時代に発生し、室町時代では土佐派で代表される。
鎌倉後期からは、宋元画やその影響を受けた新様式の日本画に対して平安時代以来の伝統的な様式による絵画の総称。唐絵(からえ)に対していう。また、15世紀に土佐派が興隆して大和絵を標榜(ひようぼう)してからは、流派的な観念も含まれるようになった。
とさは
土佐派

 大和絵の伝統を継承して、もっとも長くその主流を占めた画派。
数種類流布する「土佐系図」などでは、その画系は平安時代にまでさかのぼるが、鎌倉時代以前の部分は信憑性が薄い。画系の祖として確実に知られるのは1352(文和1・正平7)年ごろに絵所預(えどころあずかり)となったと考えられる藤原(中御門)行光である。また、土佐の呼称は藤原行広(行光の孫か)が文献上の初出である。
以後代々絵所預に任じられたりしているが、行広の次代の光弘、ついで光信が輩出するに及んで、土佐派は著しく発展した。土佐派は中世における大和絵の担い手として重要な存在であり、また近世においては町絵の新しい興隆を促したことも特筆される。
すみよしは
住吉派

 江戸初期に住吉如慶(じょけい)によって創始され、明治まで続いた大和絵系の画派。
如慶とその子具慶(ぐけい)が有名。住吉如慶(1598―1670)は、堺の出身で土佐光陳(みつひさ)といい、京都の大和絵の画家。土佐光吉の門人であったが、1661(寛文1)年に剃髪して如慶の号を賜り、さらに後西(ごさい)天皇の命で、鎌倉中期の画家、住吉慶恩の画系を復興するために姓を住吉と改めた。穏やかで細緻な土佐派の画風を踏襲しつつ、親しみやすい人物描写や漢画的な表現に本領を発揮した。また幕府の御用絵師として関東にも赴き、この地に大和絵の伝統をおこした。具慶(1631―1705)は如慶の子。1683(天和3)年江戸に召し出されて1685(貞享2)年には幕府の奥絵師に任じられ、住吉派は京都の土佐派に匹敵する画派に成長した。父の画風をよく受け継いだが、人物の表情はより誇張され、現実感豊かな描写は同時代の風俗を描いた『都鄙(とひ)図絵』『洛中洛外図巻』などに生かされている。
かのうは
狩野派
 室町時代から明治に至る日本絵画史上最大の画派。
400年の長きにわたって、近世画壇に君臨し続けた。その歴史は、室町後期、始祖狩野正信が小栗宗湛の後を継いで足利幕府の御用絵師に任ぜられたことに始まる。正信は中国の宋元画に学んだ漢画系の画人であったが、大和絵の技法をも自由に取り入れ、その子元信は、大和絵の伝統的な装飾性を生かした明快な障壁画様式を創造、優れた政治的手腕によって後の狩野派発展の基礎を築いた。孫の永徳は、桃山様式を完成、安土城天守閣をはじめ聚楽第、大坂城など、当代を代表する大規模な殿舎の障壁画にその天賦の才腕を振るった。
そう
 中国の王朝(960〜1279)。
開封(かいほう)を都とした北宋(960〜1127)と臨安(りんあん)(杭州)を都とした南宋(1127〜1279)をあわせてさし、300余年続いた。
南朝の宋(劉宋)と区別して趙宋(ちょうそう)ともいう。後周の武将趙匡胤(ちょうきょういん)が創建。文官を優遇し、文治主義を実践、皇帝の独裁政治機構を確立した。1127年金に滅ぼされると南宋を建国。諸制度は北宋を継ぎ、経済は発展したが、終始北方対策に苦しむ。1279年元に滅ぼされた。
なん‐そう
南宋
 靖康(せいこう)の変で宋の皇帝らが金に連れ去られた後、1127年、高宗が江南に拠り、臨安を都として再建した王朝。1279年、金に代わった元に滅ぼされた。
どう‐しゃく
道釈
道教と仏教。
どうしゃく‐が
道釈画
 東洋絵画の画題の一つ。道教および仏教に関する人物画の総称で、神仙や仏教の羅漢・観音などを画題とする。日本では鎌倉・室町時代に盛行。道釈人物画ともいう。
道教関係では、竹林の七賢や商山四皓(しょうざんしこう)などの高士たちや、東方朔(とうぼうさく)、呂洞賓(りょどうひん)、琴高仙(きんこうせん)、張果老(ちょうかろう)、蝦蟇鉄拐(がまてつかい)などの伝説的仙人たち、仏教関係では、白衣観音や羅漢、達磨をはじめ禅宗の祖師たち、寒山・拾得、布袋、蜆子和尚(けんすおしょう)などである。いずれも道に通じ、悟りを開いた人物として、風貌怪異に描かれることが多い。その超現実的な世界の表現によって中国では画家の最高の目標とされ、五代の石恪(せきかく)、貫休(かんきゅう)や、宋代の梁楷(りょうかい)、元代の顔輝(がんき)など名手が輩出した。
どうきょう
道教

Taoism
  道教は、中国民族の固有の生活文化のなかの生活信条、宗教的信仰を基礎とした、中国の代表的な民族宗教である。
それは漢時代以前の巫祝(ふしゅく)信仰や神仙方術的信仰および民衆の意識などが基盤となって、漢代に黄老(こうろう)信仰が加わり、おおむね後漢末から六朝(りくちょう)時代にかけて形成され、現在でも台湾や香港などの中国人社会で信仰されている。
初期の道教的信仰は、不老不死の神仙を希求したり、巫術や道術による治病や攘災(じょうさい)に重点を置いたが、儒教や仏教と競合し、影響しあい、内的修養や民衆的道徳意識の堅持を中心とする信仰をも重視するように発展した。
ぶっきょう
仏教
仏教は、ゴータマ・シッダッタが覚りを開いてブッダとなり、その教えを説いた時点に始まり、その教えに心服した人々が仏弟子もしくは在家信者となって、比較的緩やかなサークルが生じ、やがて教団に発展、全インドに広まった。
その後、教団の内部に分裂がおこり、保守派の上座部と進歩派の大衆部とに分かれ、その後さらに細分裂が進行した。
このうち、上座部系の長老部の仏教が紀元前3世紀なかばにスリランカに伝えられて、いわゆる南伝仏教を形成。インドには部派仏教が栄える一方に、しばらくしておよそ紀元前後ごろから大乗仏教がおこり、ここにあまたの大乗の諸仏が新たに出現した。
以後は、部派と大乗とが並列し、7世紀に入ると密教が栄え、13世紀まで継続する。そして西進した仏教は、紀元1世紀ごろに中国に入り、仏典の漢訳が進められる。その経巻と仏像とを携えて、4世紀には朝鮮半島へ、6世紀には日本へ、またインドから直接チベットへと、仏教は伝わるが、それらの主流は大乗仏教であり、やがては密教を加える。これらの北伝仏教の大半は、種々の変遷を経て、ほぼ今日に至る。
ぜんしゅう
禅宗
 中国と日本の、仏教の一派。
6世紀の初め、インド僧の達磨が開宗、唐より宋初にかけて、中国文明の再編とともに、民族自らの宗教として独自の教義と歴史をつくり、鎌倉時代以後、日本にきて結実する。
経論の学問によらず、坐禅(ざぜん)と問答によって直接に仏陀の心に目覚める、見性悟道を説く。近世中国の仏教はみな禅宗を名のるが、日本では他の諸宗に伍(ご)して、曹洞(そうとう)、臨済(りんざい)、黄檗(おうばく)の3派を数える。
ぜん
サンスクリット語ディヤーナdhynaの音写。口語のジャーナjhnaが訛ったものともいう。
静かに考えること、思惟修(しゅいしゅ)の意。
古代インドで、ヨーガとよばれた瞑想法のうち、精神統一の部分が仏教に取り入れられ、とくに中国と日本で極度に洗練され、独自の思想として発展したもの。近代ヨーロッパの科学技術に対し、アジア精神文明の核として、新しい評価を受けている。坐禅は、坐って思惟する意、禅定は、禅よりもさらに深層の瞑想を意味する三昧(さんまい)、すなわちサマーディsamdhiを定(じょう)と訳したのによる。
しゃか
釈迦
 生没年不詳。紀元前463―前383年説と、前565―前485年説がある。仏教の創始者。
ネパール南部がインド大平原に連なるあたりに位置したカピラ城を中心に、サーキヤ族の国王の長子として生まれた。釈迦の呼称はこの種族名に由来し、釈尊と漢訳する。姓はゴータマ、名はシッダッタ、シッダールタという。多くは、覚者(悟った人)を表す普通名詞を固有名詞化して、仏陀(ブッダ)または仏とよばれ、これが転訛(てんか)して日本では「ほとけ」となる。釈迦は生後7日に母に死に別れ、王子としての教養を積み、16歳で結婚する。しかし富裕と安逸な日常のうちに、青年期を過ぎた釈迦は、人生の根源に潜む苦の問題に思いを深め、苦の本質の追究とその解放である解脱(げだつ)を目ざすようになる。29歳のとき、その徹底的な解決を求め、城を脱出して出家する。やがてガヤーの地に赴き、付近の山林にこもって6年の苦行を続けるが、それを放棄し、ブッダガヤの菩提樹の下に座って、ひたすら思索・瞑想にふけった。ついに大いなる悟りが開けて、ここに成道(じょうどう)は完成し、ブッダすなわち「悟った人(覚者)」となった。その後説法を決意する。
釈迦は請われるままに一般の人々にも広く呼びかけ、彼らのさまざまな問いに懇切に答えて、説法教化の旅が続けられた。仏弟子も信者もしだいに増加し、経典では仏弟子1250人とするものの、実数はそれを超えたらしい。釈迦は酷熱のインド各地に成道以後の45年間も教えを説いて回ったが、ついにクシナガラの郊外の2本のサーラ樹(沙羅双樹(さらそうじゅ))の下で入滅する。ときに80歳。入滅後、釈迦は付近の民衆により火葬され、その遺骨(仏舎利(ぶっしゃり)という)は諸王たちに分配され、八か所に祀られ、ストゥーパ(塔)が建てられた。
だるま
達磨
 生没年不詳。禅宗の開祖。インド名はボーディダルマBoddhi-dharma。詳しくは菩提達磨であり、達摩とも書く。
6世紀の初め、西域より華北に渡来し、洛陽を中心に活動した。唐代中期、円覚大師と諡(おくりな)される。同時代の仏教が煩瑣な哲学体系に傾くなかで、壁が何ものも寄せ付けぬように、本来清浄な自性に目覚め、ずばり成仏せよと説く、平易な口語の宗教運動家であった。
あたかも8世紀より9世紀にかけて、急激な社会変革の時代に、人々は新仏教の理想を達磨に求め、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏の四句に、その教義と歴史をまとめる。達磨は仏陀より28代の祖師で、正法を伝えるために中国に渡来した。
さん‐せい
散聖
世俗を捨て仏門に入った人を敬っていう語。特に、布袋(ほてい)和尚をさす場合がある。
かんざんじっとく
寒山・拾得
 中国、唐代の禅僧。従来は唐代初期の人とされていたが、8世紀ごろ(盛唐から中唐の時期)に生きていたのであろうとされている。雲水の豊干(ぶかん)と3人で天台山(浙江省)国清寺(こくせいじ)に出入りし、ぼろをまとい、台所に入り込んでは僧たちの残飯を食していたという。3人をあわせて三隠、三聖と称する。この3人のことを記すのは、閭丘胤(りょきゅういん)の『三隠詩集』序であるが、閭丘胤は架空の人物であって、実際はだれなのか不明。閭丘胤に語ったという豊干の言によれば、寒山は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の化身、そして拾得は普賢(ふげん)菩薩の化身であったという。
森鴎外(おうがい)の小説『寒山拾得』は、この閭丘胤の序文をもとに記されたものである。
かんざんじっとく
寒山拾得
森鴎外の短編小説。1916(大正5)年1月号の『新小説』に発表。
「寒山子詩集序」を材料とした、鴎外最後の歴史小説。唐代の官吏閭丘胤(りょきゅういん)が、豊干という托鉢(たくはつ)僧の示唆で、天台山国清寺に赴き、寺の厨(くりや)で、拾得と寒山に会ったはよいが、恭しく正規の名のりをあげて、笑い飛ばされる話。世俗の権威主義、価値観を否定し、裸の人間それ自体の尊厳を象徴化した、鴎外短編中の逸品である。鴎外の退官直前の作品で、閭丘胤には、それまでの官吏鴎外自身も託されているとみられる。
こう‐し
高士
志が高くりっぱな人格を備えた人物。人格高潔な人。「―世に容(い)れられず」
世俗を離れて生活している高潔な人物。隠君子。
せんにん
仙人
 漢民族の古くからの願望である不老不死の術を体得し、俗世間を離れて山中に隠棲し、天空に飛翔することができる理想的な人をいう。僊人とも書く。
中国、戦国末(前3世紀)に山東半島を中心とする斉(せい)・燕(えん)(山東省、河北省)の地に発生した神仙説が、その後、陰陽家の説を取り入れた方士(ほうし)(呪術の実践者)によって発展し、さらに道家思想と混合して成立した道教によって想像された。
『史記』の「秦始皇本紀」18年に記されているように、すでに秦代に海中の三神山に僊人がいると考えられていた。漢の武帝も、この僊人を尊んで、封禅(ほうぜん)(天子が行う天地の祭り)を修め、祀祠を設けている。
たっちゅう
塔頭
 本寺の境内にある末寺院。塔中とも書く。
塔は墓の意で、もとは高僧が寂すると、弟子がその塔の頭(ほとり)に小庵(しょうあん)を建て、墓を守ったことに始まる。のちには、大寺院の高僧が隠退したときなどに、寺の近くや境内に小院を建てて住し、没後も門下の人々が、この小院に住して墓塔を守り、祖師が生けるがごとく奉仕するに至り、それらをも塔頭と称する。次々と小院が建てられたために、しだいにその数も増え、たとえば鎌倉の円覚寺は一時、32庵二院を数え、いまでも12庵一院を擁している。元来、塔頭は大寺院に従属したが、明治以後では独立した寺院として扱われることが多い。
ござん
五山
 禅宗寺院で最上の寺格を示す五つの官寺(政府が住持を任命する寺)。
十刹(じっせつ)の上に位置する。中国・南宋代に、政府が特別の保護を与え管理するために設けられたのが始まりである。日本では建武年間(1334〜1338)、第一南禅寺(大徳寺と同格)、第二東福寺、第三建仁寺、第四建長寺、第五円覚寺と、京都中心に制定されたのが最初である。以後しばしば五山の選択・位次の改定が行われたが、1386(元中3・至徳3)年最終的に、五山之上南禅寺、五山第一天竜寺・建長寺、五山第二相国寺・円覚寺、五山第三建仁寺・寿福寺、五山第四東福寺・浄智(じょうち)寺、五山第五万寿寺・浄妙寺という、京・鎌倉対等の各五山の位次が確定した。
一方、五山の語は広義には、五山・十刹・諸山という禅宗官寺に住持を出しうる資格をもつ禅宗各派の総称として用いられる。夢窓(むそう)派と聖一(しょういち)派がその主軸となって、官寺の止住、幕府の文化・外交の顧問として機能した。また五山派は日本漢文学史上きわめて重要な足跡を残し、五山文学を大成させ、近世儒学の母胎ともなった。五山禅僧によって形成された諸文化は、衣食住一般の文化にも多大な影響を与えた。
ござんぶんがく
五山文学
 五山禅林の漢詩文の文学。
鎌倉時代から江戸時代初期に行われ、最盛期は南北朝時代から室町時代前期まで。
臨済宗の鎌倉五山、京都五山の10寺の上に南禅寺が置かれ、以上の11か寺を五山という。
五山以外の禅寺の文学も含む。作者はすべて禅僧、読者も多くは禅林内部の人たちであった。作品は、上堂・秉払(ひんぽつ)・陞座(しんぞ)などの法語類から、頌偈(じゅげ)・賛などの韻文、さらには文学的な詩文をも含み雑多。大休正念、無学祖元、一山一寧らの来日僧によって大陸禅林の文学が移植されて萌芽となり、求法の留学僧たちが大陸の宗教・教養・知識を持ち帰って開花する。隆盛期の双璧の義堂周信と絶海中津は、ともに大陸の人たちにも引けをとらぬ文章力をもち、義堂の詩文集『空華集(くうげしゅう)』、絶海の『蕉堅稿(しょうけんこう)』は明人から序をもらい、詩の技法・作風を嘆称された。彼らに先んずる優れた詩僧としては、『岷峨集(びんがしゅう)』の雪村友梅、『済北集』の虎関師錬、『東海一集(とうかいいちおうしゅう)』の中巌円月らがいる。ほかに『東海華集(とうかいけいかしゅう)』の惟肖得巌、『続翠詩集』の江西竜派、『心田詩稿』の心田清播、『漁庵小稿』の南江宗(そうげん)、『狂雲集』『狂雲詩集』の一休宗純、『補庵京華集』の横川景三(おうせんけいさん)、『梅花無尽蔵』の万里集九(しゅうく)、『翰林胡蘆集』の景徐周麟、『幻雲稿』の月舟寿桂らがいる。室町末期になると宗教性が希薄化し禅林文学独自の思想性もなくなって、佳人を詠み、男色を詠ずる作品・作者さえあって、室町幕府の崩壊とともに消滅した。江戸期の漢詩文は、五山の影響を脱却し、儒学思想を中核とするところから新生する。
しくんし
四君子
 東洋画の題材とされる竹、梅、菊、蘭の総称で、草木や花のなかでも気品があり高潔であるところがあたかも君子のようであるところから生まれた呼称。
中国で宋・元代の文人画家の間で流行し、日本でも盛んに描かれた。また墨竹(ぼくちく)、墨梅、墨蘭(ぼくらん)など、墨戯(ぼくぎ)としてその独自の風趣を描出することが行われ、わが国では南画の作例に遺品が多い。
さいかん‐さんゆう
歳寒三友
東洋画の画題の一。寒さに耐える松・竹・梅、または梅・水仙・竹。
山水・松竹・琴酒。君子が友とする三種のもの。
くんし
君子
 中国において人間類型を示す語。最古の歌謡『詩経』にみえるこの語は種々の意味を示す。
〔1〕身分の高い人。「君子の依(よ)る所。小人の腓(したが)う所」(馬車についていう。采薇(さいび))。
〔2〕夫または夫となるべき男。「君子于(ここ)に役す」(君子于役(うえき))。「未(いま)だ君子を見ず」(草蟲(そうちゅう))。
〔3〕徳の高い人。「斐(ひ)たる君子有り」(淇奥(きいく))。
〔1〕〔3〕の用法では「小人」に対する。孔子も〔1〕〔3〕両義に用いる。「君子の徳は風。小人の徳は草。草これに風を上(くわ)うれば、必ず偃(ふ)す」(『論語』顔淵篇(がんえんへん))の場合、君子は為政者。「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(里仁(りじん)篇)というときは有徳者の意味。そして「君子は器ならず」(為政篇)というとおり、幅広い教養人。職人でない。
かおうにんが
可翁仁賀
 生没年未詳。14世紀前半ごろに活躍したと推定される日本画家。水墨の道釈人物画に優れた作を残している。
彼の作品のほとんどに「可翁」および「仁賀」の朱文方印が押されており、可翁仁賀と称したことは確実であるが、その伝歴については諸説ある。可翁を鎌倉時代の絵仏師宅間派の画人とする説では宅間派の画人が歴代その名に「賀」の字を使っていることから、可翁仁賀も同派に属すとする。可翁を筑前の人で南浦紹明の法を嗣ぎ、元にも渡った高僧可翁宗然(そうねん)(?―1345)と同一人とする説もあり、現段階ではいずれとも決めがたい。代表作に『
蜆子和尚図(けんすおしょうず)』(東京国立博物館)、『寒山図』『竹雀図』(奈良・大和文華館)などがあり、いずれも禅機に満ち、禅の心の端的な表現となっている。他「楼閣山水図
もくあんれいえん
黙庵霊淵
 生没年未詳。14世紀ごろ中国で活躍した日本人水墨画家。本名は是一。鎌倉浄智寺の見山崇喜の弟子となり、霊淵と改名。
嘉暦(かりやく)(1326〜29)ごろ元に渡り、天童山の平石如砥、育王山の月江正印、寿山本覚寺の了庵清欲や楚石梵(そせきぼんき)らの名僧に参禅した。臨安の浄慈寺にいたときすでに能画家として知られ、たまたま西湖六通寺に遊んだおり、そこの院主より当寺の開山、牧谿和尚(もっけいおしょう)の再来といわれ、その遺印を授かった。絵は禅の余技的制作として出発したと思われるが、やがて1344(至正4)年楚石のもとで「二十二祖像」のような大作を描いていることから、画僧として本格的な活動をしたとみられる。1345年ごろ中国で没す。遺作は日本にもたらされたが、長く黙庵を中国人と見誤っていた。「
布袋図」了庵清欲賛 MOA美術館「四睡図」祥符紹密賛 前田育徳会
てっしゅうとくさい
鉄舟徳済
(?〜1366)禅僧。 「蘭竹図」義堂周信賛
(ウケイグケイ)
右慧愚谿
禅僧。「出山釈迦図
りょうせん
良詮
 (生没年未詳)良全とも書く。正平年間(1346〜1370)頃の画僧。初期水墨画家として重要。「白衣(びゃくえ)観音図」。他「釈迦三尊図」の中尊 清荒神清澄寺
きちざんみんちょう
吉山明兆
 室町初期の画僧。諱(いみな)は吉山(きちざん)。号は破草鞋(はそうあい)。 
若くして大道一以(だいどういちい)(1289〜1370)の門に入り、のち師とともに上洛、東福寺に入寺して堂守の殿主(でんす)職についたので、兆殿司(ちょうでんす)と俗称される。
終生東福寺の絵仏師的な立場を貫き、同寺のために多くの仏画や頂相を制作。1386(元中3・至徳3)年に完成した『
五百羅漢図』50幅(現在45幅は東福寺、二幅は根津美術館)をはじめ、『聖一国師(しょういつこくし)』『大涅槃図』(1408)、『達磨・蝦蟇(がま)・鉄拐(てっかい)』(いずれも東福寺)などの大作がそれである。後年、明兆は仏画以外に純然たる水墨画にも筆を染め、『白衣観音(びゃくいかんのん)』(静岡県、MOA美術館)や『渓陰小築図』(京都・南禅寺金地(こんち)院、国宝)などの作がある。
しが‐じく
詩画軸
画面上部の余白に、その絵にちなんだ漢詩を書いた掛け軸。
じょせつ
如拙
生没年不詳。室町時代の応永期(1394〜1428)に活躍した京都・相国寺の画僧。当時相国寺にあった周文の師とも伝えられる。4代将軍足利義持の指導と援助で数々の画作に従事したと推定され、初期水墨画壇の中枢的役割を果たした。生前より画名高く、のちに長谷川等伯は『等伯画説』で如拙を唐様(からよう)(宋元画)の開山と評し、その水墨画史上での指導的地位に言及している。如拙の号は、同時代の名僧絶海中津(ぜっかいちゅうしん)が「大巧(たいこう)はなるがし」の意から命名したという。代表作に『瓢鮎(ひょうねん)』(国宝、京都・退蔵院)がある。「円くすべすべした瓢箪(ひょうたん)でぬるぬるした鮎(なまず)をおさえるには如何(いかん)」という禅の公案を図示したもので、将軍義持の命で制作された。
ぼんぽう
梵芳
生没年不詳。京都建仁寺、南禅寺の住持をつとめた禅僧画家。玉えん梵芳。鉄舟徳済の弟子。  「竹林図」自題。 重文の「蘭石図」自画賛がある
しゅうぶん
周文
 生没年不詳。室町中期(15世紀前半)の画僧。号は越渓(えつけい)、字は天章。
京都・相国寺の僧で、同寺の都管(寺の運営、経理などをつかさどる役職)として『蔭凉軒日録』にも登場し、文都管とよばれている。同じくの僧であった如拙から画を学んだと考えられる。多才で、水墨画のほか着色仏画も描き、室町幕府の御用絵師として抱えられ、この時代に盛行をみた、詩画軸の形式を完成させた。
これは、画面上部の余白に名僧知識たちが、その作品にちなんだ漢詩を著賛したもので、これにより外来の水墨画が本格的に定着した。作品は『
水色巒光(らんこう)』(国宝)、『竹斎読書図』(国宝、東京国立博物館)などが名高い(がいわるる伝周文なのである)。「四季山水図」屏風 静嘉堂文庫、「聴松軒図」惟肖得厳題詩・永享33(1433)静嘉堂文庫、「三益斎図」梵芳序・応永25(1418)静嘉堂文
せっしゅうとうよう
雪舟等楊
 室町時代の禅僧、画僧。
僧位は知客(しか)。諱(いみな)は等楊(とうよう)。備中国(岡山県)赤浜(総社市)に生まれ、幼少にして上洛、相国寺に入り、春林周藤(しゅんりんしゅうとう)についたといわれる。1467(応仁1)年48歳の春、ついに遣明船「寺丸」に便乗して入明、寧波(ニンポー)を経て北京に上った。この間かの地の名家の真跡を学び、自然と風物を観察、北京では皇帝の命により礼部院の壁画に筆をとり、広く賞賛を得た。また禅僧としても高い評価を与えられ、四明天童山の第一座に推された。滞明は3年に及び、1469(文明1)年に寧波経由で帰国した。
四季山水図』(東京国立博物館)は、款記に「日本禅人等楊」とあるところから在明中の制作と考えられる。1476年には大分にあったようで、ここで天開図画楼(てんかいとがろう)という画房を開き、以後、美濃(岐阜県)、出羽(山形県)など各地を漂泊、『鎮田瀑(ちんだばく)』(大分県)や『山寺図』(山形県)などの真景図を描いた(これらの作品は模本が残されている)。1486年67歳のとき、畢生(ひっせい)の名作『四季山水図(山水長巻)』(国宝、山口県・防府毛利報公会)を制作し、1496年にも大作『慧可断臂(えかだんぴ)』(愛知県・斎年寺)に筆をふるっていることから、晩年に至るまで旺盛な制作意欲を失わなかったことがわかる。また『天橋立図』(国宝、京都国立博物館)は描かれた図様から1501(文亀1)年以降の景観を写したと考証される。
代表作として、前記の作品以外には、『
秋冬山水図』(国宝、東京国立博物館)、『四季山水図』(東京・ブリヂストン美術館)、図中に牧松周省(ぼくしょうしゅうせい)、および了庵桂悟(りょうあんけいご)賛のある『山水図』(国宝、京都大原家)、『山水図巻』(山口県立美術館)などがあり、庭園にも雪舟作庭と伝えるものがある。
しょうこくじ
相国寺
 京都市上京区今出川通烏丸東入ルにある臨済宗相国寺派の大本山。
本尊釈迦如来。足利3代将軍義満が後小松天皇の勅命を奉じて創建した寺で、1383(弘和3・永徳3)年10月に起工し、1385(元中2・至徳2)年11月に仏殿の完成をみた。
開山には鹿苑(ろくおん)院の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を請じたが、妙葩はその師夢窓疎石(むそうそせき)を第1世とし、自らは第2世となった。のち多数の学僧が輩出し、五山文学の中心となった。代々の足利氏の尊信を受け隆盛を極めたが、しばしば火災にあい堂塔を焼失し、1605(慶長10)年豊臣秀頼により、法堂(無畏堂(むいどう))が再興された。これは現在、国重要文化財に指定されている。
しんけい
真景
実際の景色。実景。
「詩人が詩歌をものして―を写し、真情を吐き」〈逍遥・小説神髄〉
ちん‐ぞう
頂相
《「ちんそう」とも。「ちん(頂)」は唐音》禅宗の高僧の肖像。画像は写実性が要求され、師がみずからの頂相画に賛をつけて弟子に与え伝法の証(あかし)とした。彫像で表した頂相彫刻もある。中国宋代から隆盛をみ、日本では鎌倉時代にすぐれた作品が多い。ちょうそう。
資料:小学館版『日本大百科全書』ポケット版



「古墳遺跡遺構など」編



広島ぶらり散歩へ
海田町・ふるさと館へ


inserted by FC2 system