|
東区二葉の里に鎮座している「饒津神社」です。 |
饒津神社は、旧称:二葉山御社。通称:にぎつさんと呼ばれています。旧県社。神紋:安芸鷹ノ羽。 |
※ |
神号の饒津は、京都・吉田良長(1792-1840)に草案を依頼し、「蒼垣・饒津・功健・瑞国・振玉」の五通りが示され、長懋(ながとし:斎粛の叔父)の選択により「饒津大明神」と定められました。
|
|
祭神: |
浅野長政(1547-1611)命。(長政夫人)未津(まつ)姫命<明治元年合祀>
浅野幸長(1576-1613)命<大正14年合祀> 浅野長晟(ながあきら:1586-1632)命<大正14年合祀>
浅野長勲(ながこと:1842-1937)命<昭和15年合祀> |
由緒: |
1706 |
宝永3年 |
浅野家六代(広島藩主としては四代)綱長の時に廣島城の鬼門方位といわれた明星院客殿西方に初代浅野長政の位牌堂を建立。 |
|
1810 |
文化7年 |
十代(広島藩藩主としては八代)斉賢が九代重晟とともに新たな位牌堂を建立。
この位牌堂が饒津神社の先駆的なものとされています |
|
1835 |
天保6年 |
十一代斉粛が祖先の追孝の為に社殿を現在地に造営、二葉山御社と称しました。 |
|
1873 |
明治6年 |
饒津神社と改称。 (社格が県社となりました) |
|
1945 |
昭和20年 |
8月6日、原爆により全焼。 爆心地から約1,800m |
|
1949 |
昭和24年 |
本殿再建。 |
|
1952 |
昭和27年 |
拝殿再建。 |
|
〜1984 |
〜昭和59年 |
(境内の一角を道路用地として売却)境内が整備されました。 |
|
原爆被災説明板によると
『原爆の炸裂により強烈な爆風のため、本殿や唐門などの建物が一瞬にして破壊されました。
その直後本殿から出火し 他の建物も次々と延焼していきました。
爆風により境内の樹木は吹き倒され参道の石灯籠も倒されました。
境内には燃え盛る市内から大勢の人々が避難してきて臨時の救護所が設けられました』と記述しています。 |
(饒津神社近くの)牛田に住んでいましたので、この饒津神社横を(今は道路幅が広くなり境内が狭くなりましたが)何度となく通っていましたが、初詣でお参りに行くときぐらいで、境内の中を見回したこともなかったのです。
おじさんの「原爆記」の関連資料として2004年この饒津神社を訪ねてみたのです。それからたびたび境内を散策するようになりましたが、気が付かなかったことがしばしばありそれごとに追記しています。
標柱(標縄柱)の頁を編集するので久しぶりに饒津ガード方面より撮影した今(2008年)回、境内の被爆したマツが無くなっているのがさびしい画像になりましたが原爆で消失した木製の鳥居が再建されています。
歩道に「二葉の里歴史の散歩道・案内図」が新たに設置されていましたが、それにもまして交通量が増えたと実感したのでした。 |
12.03.17更新 11.03.01再編集 02.05.01裕・記編集 |
|
|

02.04.27.撮影 |
広島市東区二葉の里2‐6‐34 |
|

08.03.12.撮影 |
饒津ガード方面(西)よりみました (*原爆により傾いたといわれる松・2003年枯死しました) |
|

12.02.04.撮影 |
拝殿をみました |
|

02.04.27.撮影 |

02.04.27.撮影 |

03.06.03.撮影 |
標柱(標縄柱) |
鳥居 |
原爆被災説明板 |
|

02.04.27撮影 |

02.04.27撮影 |

02.04.27撮影 |
唐門 |
社殿(拝殿) |
饒津神社・神社額
神社本廳統理 徳川宗敬謹書 |
|

05.11.03.撮影 |

06.01.21.撮影 |
唐門の前に(木製の)両部鳥居が工事中でした、2005(平成17)年完成したようで、2006年正月完成を撮影しました |
|
|
|
敬称、尊称は略しました |