(饒津神社の枯死した)被爆樹木・マツ

  東区二葉の里の饒津神社に過ってあった「被爆したマツ」をこの頁で取り上げました。
※2003年枯死しました(ので)いまは幹の部分が保存されています。
被爆樹木 マツ  A-bombed tree 
Japanese Black Pine

爆心地から1720m  Approx. 1720m from the hypocenter
このマツは昭和20(1945)年8月6日原爆のも耐え生き残ったものです。
※残念ですが枯れてしまいました。
この饒津神社の松はすでに(2003年)枯れているからです。
以前牛田に住んでいた時、数え切れないほど通っていたのに、この被爆した松を意識したこともなかったのです。
2002(平成14)年饒津神社を撮影した時にはじめて被爆の影響で傾いたのだと知ったのです。
2005年の初詣にも来たというのに松のことなど意識していませんでしたが、先日やっと撮影し編集したのでした。
松が無くなったところを撮影していませんでしたので、2008年になりましたが遠景で撮影しました。
 08.03.19更新     05.11.18裕・編集

02.04.27.撮影
   広島市東区二葉の里2‐6‐34

05.11.03.撮影

05.11.03.撮影
饒津神社被爆マツの由来
当神社の参道には創建時(1835=天保6年)植栽した黒松が林立し、原爆前は20数本の大木が参道を覆い壮大な松並木であった。
1945(昭和20)年8月6日の原爆により御社殿等建造物はすべて一瞬にして倒壊後炎上灰塵に期した(当神社は爆心地から東北約1800mの地点)また、松並木も熱風や爆風による損傷・倒木の被害を受けたが10数本の松は生き延び、その後松喰虫や大気汚染で次々に枯れ、最後の1本のみとなった。
被爆を伝える貴重な松として種々養生を加え大切に保管したが樹勢が衰え2003(平成15)年1月に枯死に至った。
ここに広島の歴史・神社の伝統・原爆の鎮魂の証としてこの切株を保存する。
年輪からみた樹齢は約170年と推定され神社の創建時とほぼ一致する。外周の年輪の詰まった部分は原爆の熱風や爆風で枝葉が焼け落ち吹き飛ばされ年輪形成上影響を受けた部分(矢印の間)とみなされこの間約20数年と鑑定されている。切株保存の覆屋はこの被爆松を材料として建てた。なお、原爆直後境内のこのあたりは大勢の負傷者が避難し惨状を呈した場所である。
平成15(2003)年11月饒津神社社務所

08.03.12.撮影
時移り・・・被爆したマツはありません



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(被爆した)手水鉢〔復活した手水舎〕
(再建された)向唐門
(再建された)両部大鳥居
(境内社)稲荷大明神
(境内建立の)浅野長勲公頌徳碑
(境内建立の)石水盤石燈籠銘・碑
(被爆した)御陣中御手水鉢
(境内建立の)坂井虎山先生之碑
(境内建立の)河野小石先生碑
(境内建立の)木原桑宅翁之碑
(境内建立の)北清事変忠死者紀念之碑
(境内建立の)臨時陸軍検疫部職員死者追悼之碑
(被爆した)標縄柱
(境内建立の)標縄柱銘并序・碑
(境内の)石垣について
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広島市保存樹73:クスノキ
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二葉山山麓七福神恵比須天


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