ひろ しまごこくじんじゃ
廣島護國神社 (概説)
 
  中区基町に鎮座の「広島護国神社」です。
祭神:(広島)県内出身の神霊、原爆による公務犠牲者の神霊、(九万二千六百六十六柱)。
由緒:
1868 明治元年 二葉の里に水草霊社(広島護国神社の始まり)造営
朝命により戊辰戦争の戦死者78柱の御霊を 斎祀したのが起源。
1934 昭和9年 広島西練兵場西端(旧・広島市民球場辺り)に官祭廣島招魂社として遷座
明治10年以降の各戦役・事変に於ける戦死戦病没者4262柱を合祀する。
1939 昭和14年 内務大臣指定の廣島護國神社と改称
1945 昭和20年8月6日 原爆によりことごとく焼失。(昭和22年仮に小祠を建立)
(占領下の一時期広島神社と改めたが独立後は広島護国神社に復した)
(現在も)別表神社
1956 昭和31年 現在の地(中区基町21‐2)に復興
累次合祀して現在9万餘を奉斎する
このうち1万柱は地域・職域・義勇隊・動員学徒・女子挺身隊等公務原爆関連の御祭神
1972 昭和47年 社務所、儀式殿が造営されました
1993 平成5年 社殿が改築造営されました
2009 平成21年 創建130年記念事業として社務所棟、儀式殿など各施設が整備されました
資料は神社前設置の由緒説明板などを参照しました
1982(昭和57)年(わたしは)故郷広島に帰って来て牛田に住んでいましたので、毎年ではないにしても初詣にここ広島護国神社を参拝していました。
2000年ごろから原爆関連慰霊碑を巡りをはじめていました、ここ広島護国神社の祭神が原爆によって犠牲になった公務関係者も祀られているということからも取り上げなくてはと思っていたのです。
2009年廣島護國神社創建130周年記念事業として、各施設が整備されましたので、境内外から撮影し、画像を差し替えたりし、2012年9月現在の社殿を前面から撮影して頁を更新しました。
12.10.02.更新   02.04.30裕・記編集

12.09.24.撮影
広島市中区基町21-2

11.12.05.撮影
  (社殿南側に社務所棟が新築されています)

04.01.01撮影
2004年初詣は帰省した長男と行きました、次男も友達と行ったそうで遠くから私達を見たそうです

04.01.01撮影

04.01.01撮影

11.12.05.撮影
2004年初詣の状況 「社神護島廣」神社扁額 本殿を裏側からみました

02.04.27撮影

02.04.27撮影

02.04.27撮影
西側から境内をみました 社殿 拝殿から本殿の方をみました

04.05.12撮影

09.02.21撮影
現在:お堀の東側(RCC中国放送南側)に建てられている被爆した鳥居
被爆当時:広島護国神社は、解体された旧広島市民球場の処に位置していました
廣島護國神社・神社額
ぼしんせんそう
戊辰戦争
1868(慶応4)年戊辰の年に始まり、維新政府軍と旧幕府側との間に16ヶ月余にわたって戦われた内戦。
正月の鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は、4月江戸城を接収、上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅、奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に10月には帰順させた。翌(1869)年5月最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ、内戦は終結、明治絶対主義国家確立への途が開かれました。
(えき)
役:
戦争。たたかい。 「西南の役」「後三年の役」
役という文字は遠征・長征をさす言葉であり、軍事行動に対する中立的な言葉。
(せんそう)
戦争:
武力を用いて争うこと。
1)二国または2グループに分かれた国々が武力を用いてたがいに敵対行為をとる状態。
   国家国際法上、宣戦布告によって発生し、戦時国際法が適用される。
2)国内の武装勢力どうしが敵対行為をとる状態。



「広島の神社寺院」編


「広島城附近」編



広島ぶらり散歩へ
廣島護國神社(概説)
  広島護国神社(拡大版)
被爆し現存する鳥居
被爆倒壊した鳥居脚部
  (被爆した)鳥居(拡大)、名版石
吉田正浪作:英霊にささぐ・像
丸山幸一作:双鯉の像・昇鯉の像
寶祚無窮矣・碑
ノモンハン事変15周年記念・植樹碑
(番外)廣島護國神社の絵馬
(番外)戦前の付近地図


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