せいちゅうひ
旌忠碑

  東区二葉の里の広島東照宮参道根際に移設再建されている「(西南戦争での)旌忠碑」です。
※明治天皇既継統廃藩置縣で始まるこの碑。
※陸軍中將從四位勲二等三浦梧楼撰并篆額。山口縣周防巖國塩屋處書。
※明治十一(1878)年十ニ月廣嶋鎮臺臺下將校醵資建之。
この「旌忠碑」は、明治10(1877)年2月に明治新政府と西郷隆盛(1828-1877)を首領とする鹿児島士族らとの間に生じた「西南戦争」で、亡くなった広島鎮台兵の顕彰と慰霊のために建立されたものです。
この石碑には、熊本城から田原坂、鹿児島に至るまでの政府軍と薩摩軍との激戦の様子が記されています。
政府軍には広島鎮台からも兵を出しており、戦闘では政府軍の先頭に立って奮戦し、六百数十名もの戦死者が含まれていました。国内ではこの戦争を最後に士族の反乱はなくなり、政府による権力的基礎は確立され、近代化が進んでいきます。
「旌忠碑」の“旌”は旗幟(きし)を高く掲げて広く知らしめるとの意味があり、石碑では戦死した広島鎮台兵の健闘奮戦を伝え、国家泰平の基が築かれたその功績は特筆されるべきものとの思いが込められ、西南戦争の翌年・明治12(1878)年に広島東照宮の境内に建立されました。
撰文並びに篆額は西南戦争当時広島鎮台司令長官で長州藩出身の三浦梧楼(1847-1926)。
書は旧岩国藩士の塩屋處(さだむ).。
平成29(2017)年10月西南戦争「旌忠碑」復元委員会
2017(平成29)年3月7日中國新聞久保友美恵記者の記事を参照するとおおよそ
『西南戦争(1877)で犠牲になった広島の兵士を悼もうと、戦争翌年に広島東照宮に建立され、原爆と戦後の混乱で行方不明になっていたとされる忠魂碑が、個人が所有していた西区の庭園(旧竜王山渡辺清陵閣)で見つかった。市民たちが3月6日、石碑を東照宮に再建しようと動きだした。
石碑は高さ2.8m、幅1.3m。「明治維新三傑」の一人の西郷隆盛が、政府に不平を抱く士族を集めて九州で起こした反乱の概要や、鎮圧した政府軍の一員として広島の兵士数百人が犠牲になった歴史が刻まれている。
行方不明とされていた碑を発見したのは、佐伯区湯来町の石材業藤井弘さん(68)。2015年、西区にある庭園の庭石の処分を頼まれた際に「歴史的な意味があるらしいが保管に困っている」と相談され、引き取った。その後、知人で郷土史家の田辺良平さん(82)たちが史料や県史を調べたところ、東照宮の敷地に建てられ、戦後に行方不明だった碑だと判明した。
地元の町内会長たち119人でつくる復元委員会の初会合が東照宮であった。「明治時代初期と広島の関わりを伝える貴重な遺産。多くの人に知ってほしい」と10月の移築を目指し、石碑の運搬や台座の設営などにかかる費用約300万円を寄付で賄う方針を決めた。
この記事でこの碑が再建されることを知ったのです。時は2020年コロナ禍の中でしたが二葉の里を訪ねましたので、この碑も撮影したのです。
上記の中國新聞記事をみたとき、竜王山渡辺清陵閣に建立されていた「旌忠碑」だなと思ったのです。
時は2022年コロナ禍の中、再建中の大神社を兄と参拝に行ったとき、この移設された碑もみなくてはと思っていたのです。
広島東照宮参道に入ってすぐ左手の以前からある“高木老儒之碑”の根際に建っていたのですぐにわかりました。説明板が設置されていましたので碑文の解読には至っていませんが、西南戦争によるものととしての建立意図はわかるものでしたので、参照しこの頁を編集しました。
22.03.22.裕・編集

22.01.20.撮影
広島市東区二葉の里2-1-18

22.01.20.撮影
(説明板が設置されています)

22.01.20.撮影

22.01.20.撮影
 
碑忠旌  明治十一年十ニ月廣嶋鎮臺臺下將校醵資建之

22.01.20.撮影
「旌忠碑」と“高木老儒之碑”を大神社参道からみました



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編


「牛田・二葉の里附近」編



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