(国前寺)南無日蓮大菩薩・石碑など

  東区山根町の國前寺に建立されている「南無日蓮大菩薩」碑です。
また、この一角に建立されている「南無 日朗菩薩 日像菩薩」碑も取り上げました。
そして、「南無妙法蓮華経 眞讀経王千部實塔」も取り上げました。
2022年コロナ禍でしたが、(広島護国神社筆頭祭神)高間壮士之碑がここ国前寺の先の聖光寺に建立されていることを知ったので訪ねてみることにしました。
その前に、久しぶりにここ國前寺仁も立ち寄り、ここで取り上げた石碑を見たので取り上げました。
2006年“稲生武太夫の墓”を撮影した時は、ここで取り上げた石碑などには目がいかなかったようです。
浄土宗宗徒のわたしですが、武蔵国(東京)の池上本門寺を参詣したこともありましたが日蓮聖人が、日蓮菩薩と呼ばれてもいることをここでみた石碑で知り、その弟子、孫弟子のことなどを知るきっかけになりました。
(歳から覚えておくということはチトむつかしくても)この編集頁を見て思い出せるなとは思ってこの頁を編集しました。
 23.01.28.裕・記編集

03.08.29.撮影
広島市東区山根町32-1 國前寺(庫裏裏側の一角)
南無日蓮大菩薩・碑
日蓮(にちれん:1222-1282)
鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。安房(あわ:現千葉)国小湊の漁師の子という。没後日蓮大菩薩(北朝第4代後光厳天皇が1358年)と立正大師(第123代大正天皇が1922年)の諡号を追贈。
17歳ころから鎌倉・比叡山などで11年間修行研鑽、「法華経」こそ至高の経典であるとの確信を得、1253年故郷の清澄山頂で題目を高唱して開宗した。
次いで、念仏・禅・真言・律を破す四箇格言をもって、鎌倉の辻で説法し、「立正安国論」を著して蒙古襲来を予言し北条時頼(1227-1263)に献じたが、1261年その忌諱(きい)に触れ伊豆伊東に流された。1263年許されて鎌倉に帰ったが、再び国難を訴えて捕えられ、1271年竜ノ口で断罪されようとしたが、免れて佐渡へ流された。1274年鎌倉に帰ったが、この年蒙古が襲来(文永の役)し、幕府は日蓮に意見を求めたが応ぜず、身延山に草庵を結んで宗風の高揚に努めた。
1277年暮れ胃腸系の病を発し(1281年弘安の役)、1282年武蔵池上にて没。
著書はほかに「開目鈔」「撰時鈔」「報恩鈔」など。
  関連頁:(裕編集の)池上本門寺
日蓮聖人が、日蓮大菩薩とも云われていたのだと思った石碑でした。
今回改めてWikipediaをみると、没後「日蓮大菩薩」という諡号を追贈されたことを知ったこの石碑でした。

22.01.20.撮影
南無 日朗菩薩 日像菩薩・碑
日朗(にちろう:1245-1320)
鎌倉時代の宗の僧。日蓮六老僧の第二位。筑後房(ちくごぼう)、筑後殿とよばれ、大国阿闍梨と称される。下総(現千葉県)能手(ので)の人。
叔父日昭の縁で1254(建長6)年入門、以後師のもとを離れないで給仕し、日蓮佐渡配流のときは鎌倉長谷の土牢〔いまの光則(こうそく)寺〕に投獄された。師孝第一と称される。
日蓮身延入山後は長老の日昭とともに鎌倉にとどまって松葉谷(まつばがやつ)の草庵(そうあん)を管掌し、また鎌倉比企谷(ひきがやつ)に妙本寺、武蔵国池上に本門寺を創立した。また、平賀(ひらが:千葉県松戸市)の本土寺の開山に迎えられたが、自らは行かず、弟子の日伝を赴かせた。弟子の教育に努めて多くの人材(朗門の九鳳(くほう))を輩出したが、なかでも日像(にちぞう)は日蓮門下として初めて京都へ進出した。教団の護持、発展に尽くした功績は六老中第一。
『五時系図』『玄旨御本尊添状(げんしごほんぞんそえじょう)』などの著作がある。
※本弟子(六老僧):日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持
※朗門の九鳳(九老僧):日像、日澄、日輪、日輪、日典、日範、日印、日行、朗慶
日像(にちぞう:1269-1342)
鎌倉末〜南北朝時代の日蓮宗の僧。下総国の人。日蓮の孫弟子で肥後阿闍梨と号し、日蓮宗が京都に進出する端緒を開いた。
7歳のとき日朗に従って出家し、身延に隠棲した日蓮のもとで修学する。
1293(永仁元)年に日蓮の遺志を継いで京都伝道を志して出発し、北陸を経由して入洛。京都では、柳酒屋仲興(やなぎざかやなかおき)らをはじめとする新興の商工業者に教えを広めたが、三度にわたって追放の憂き目にあう。しかし、建武新政の動乱の渦中にあって、洛中に構えた妙顕寺は、後醍醐天皇(第96代:1288-1339)の綸旨(りんじ)によって勅願所となり、さらに足利将軍家の祈願所となる。
弟子の大覚(1297-1364)が山陽地方に伝道したのをはじめ、教線は畿内と周辺部に広がり、京都日蓮宗の発展の礎を築いた。
日蓮聖人の弟子だから日朗菩薩、日像菩薩と云われているのだろうと思った石碑でした。
今回頁を編集しながらWikipediaなどNET情報で、日蓮聖人の直弟子と云われている六弟子で実質筆頭弟子が日朗で、その弟子(日蓮聖人からは,孫弟子)が日像であることがわかりました。

22.01.20.撮影

22.01.20.撮影
南無妙法蓮華経 眞讀経王千部實塔
※法華経を(略することなく)眞に千回読経し御先祖などの供養を実施した記念塔(だと思います)。
*側面裏面に何時実施したか、誰の発起で行ったかが刻まれているようですが、わたしには読めませんでした。
(きょうおう)
経王
仏語。経典中もっとも勝れた貴いもの。
法華経を指すことが多いが、大般若経や金光明経、最勝王経などの場合もある。
こで取り上げた石碑の場合は、法華経。
(せんぶえ)
千部(会)
「阿弥陀経」「法華経」「般若心経」などひとつの経典を、省略せずに1000部読経する法会。
ここでは、法華経八巻(六万九千三百八十四文字で構成されており、これを一部経という)を千回読んで、先祖や先亡の精霊を供養すること。
2006年この石碑の根際の“稲生武太夫のお墓”を撮影した時にも目にしていた石碑でしたが、目を止め碑面を読むこともなかったのです。
今回、経王、千部という語句は何を示しているのだろうと思ったので、NET検索で、教えていただきこの項目を編集しました。

22.01.20.撮影

22.01.20.撮影
稲生武太夫の墓(別頁で編集) と 實塔 眞讀経王千部實塔

22.01.20.撮影
(裏側からみました)



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護法神社(國前寺所有)


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