ぶっつうじ
佛通寺 (概説)
  三原市高坂町許山に創建されている「御許山・佛通寺」です。
佛通寺は、臨済宗のお寺で、本尊は釈迦如来です。
1397(応永4)年沼田庄の地頭・小早川春平(?-1402)が愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう:1323-1409)(佛徳大通)禅師を迎えて建立した臨済宗の禅刹です。小早川一族の帰依を受けてまたたくまに寺勢は隆昌し、最盛期には山内の塔頭(たっちゅう)八十八ヵ寺、西日本(九州から中部地方に及ぶ十二ヵ国)に末寺約三千ヵ寺を数えるに至りました。
しかし、応仁の乱(1467-1477)ののち荒廃にむかい、小早川隆景(1533-1597)の治世になってやや再興したものの、福島・浅野と外護を受け時移り、しだいに往時の面影を失い一時天龍寺の寺属となりました。
近代に入ると一転して法灯はおおいに挽回され、1905(明治38)年臨済宗佛通寺派として分離独立復旧し、参禅道場をもつ西日本唯一の大本山として今日に至っています。
境内全体の規模や堂宇跡の配置などには見るべきものがあり、貴重な文化財も数多く保存されています。特に含暉院(がんきいん)の開山堂および地蔵堂は、佛通寺創建当初のたたずまいをしのばせる現存最古の建物です。 
広島県三原市高坂町許山22
ぐちゅうしゅうきゅう
愚中周及
1323-1409
室町時代の禅宗の僧侶。美濃(岐阜県)生まれ。諡号(しごう)佛徳大通禅師。
13歳の時京都で夢窓疎石に師事。1341年天龍寺船に便乗し元に渡り即休契了のもとで7年間修行、即休の法を嗣いで1350年帰朝。帰国後京都五山で活躍のち山林修行に専念。1397(応永4)年沼田庄の地頭・小早川春平に招かれ佛通寺を建立した。1409(応永16)年天寧寺で死去。
むそうそせき
夢窓疎石
1275-1351
鎌倉末・室町初期の臨済宗の僧。伊勢の人。諡号(しごう)夢窓国師。
天台・真言などを学んだのち、無隠円範(むいんえんぱん)・一山一寧(いつさんいちねい)・高峰顕日(こうほうけんにち)について臨済禅を修めた。後醍醐天皇や足利尊氏らの帰依をうけ、甲斐の恵林寺(えりんじ)や京都の臨川寺・天竜寺を創建。門下に五山文学の中心をなした春屋妙葩(しゆんおくみようは)らが出た。造園術にすぐれ天竜寺・西芳寺などに築庭。また、天竜寺船による貿易を促進。著「夢中問答集」など。
2007年5月24日)朝、中國新聞をみていると「臥龍の松 威風消す:佛通寺伐採」の文字が目に飛び込んできました、この松を撮影していたかなと保存ホルダーを探してみたのです、全体像は撮影していませんでしたが、一部写った画像がありましたので追記編集しました。
07.05.24更新     05.03.20裕・編集

05.01.14撮影

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巨蠎橋(きょもうきょう) 山門 法堂 大方丈

05.01.14撮影

05.01.14撮影

05.01.14撮影

05.01.14撮影
開山堂への石段 地蔵堂と開山堂 多宝塔 説明板
国重要文化財  佛通寺含暉院地蔵堂一棟  付須弥壇一基    昭和24(1949)年4月18日指定 所在:三原市高坂町許山
含暉院は開山愚中周及禅師の塔頭として応永13(1406)年創設され、地蔵堂はその佛殿として応永18(1411)年の建築である(佛通禅寺住持記による)様式は折衷様で桁行三間、梁間三間、一重、宝形造り、本瓦葺(もとは萱葺)で均整のとれた室町時代の建物である。含暉院地蔵堂の中央奥より縦2m、横2m、高さ一mの須弥壇(唐様)があり、木造地蔵菩薩坐像が安置されている。                                                        三原市教育委員会

05.01.14撮影

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05.01.14撮影

05.01.14撮影

05.01.14撮影
県立自然公園
仏通寺御調八幡宮
広島県天然記念物
仏通寺のイヌマキ
附近の景観 日支事変供養塔 山頭火歌碑



「広島の神社仏閣」編



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佛通寺(概説)
(佛通寺)仏殿、大方丈など
(佛通寺)開山堂など
参道沿い
種田山頭火句碑
(枯死した)臥龍の松


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