三宝大荒神社(and 荒神山安養院

  東区曙に建てられている「荒神山 安養院」です。また、「三宝大荒神社」でもあります。
※もとは荒神堂(三宝荒神社)に、戦後、安養院が合併して神仏合併の寺院になっています。
※(広島市の)“荒神町(こうじんまち)”町名由来の神社です。
※安養院は、平成31(2019)年度に広島新四国88ヶ所霊場の寺院入替で新しく第85番霊場になりました。
三宝大荒神社祭神:澳津彦命、澳津姫命、澳中彦命。
安養院:真言宗、御室派。
  本尊:
如意輪観世音菩薩。
  三宝大荒神由来     昭和50(1975)年10月吉日 荒神山安養院
三宝荒神は、荒神町の東南にあり慶安(1648-1652)の頃洪水で御神体が川上より流れてきたのを里庄・源左衛門が境内に安置したが、武田家の人が後に来て護身へと求めたけれどかなわず、寛文(1661-1673)中頃北の神体を盗出したが今の社地の処に遺し此処に小祠を建て祀りました。其の後再び源左衛門が舎傍に遷し、延宝5(1677)年又今の地に移しました。
安養院は、比治山の西北山腹にあったが明暦3(1657)年祝融の災に罹り旧記を焼失したので詳しいことはわからないが、本尊は如意輪観世音菩薩で弘法大師の作と伝えられていました。
明治30(1897)年8月14日蟹屋村荒神堂に合併し、爾来荒神山安養院と号し三宝荒神と如意輪観世音菩薩の神仏合祀です。
昭和20(1945)年不慮の火災に焼失、尊像堂宇が全焼しました。後に再建され、今日の尊像も再建されたものです。
昭和48(1973)年山陽新幹線建設に伴い境内の90%が買収されました。(ので)旧地を奥の院と称し楠の大木二本がわずかな跡をしのばせています。
道路を隔てた東側に昭和49(1974)年3月17日堂宇再建の運びとなり現在に至っています。
 
火の神(竃の神)として拝められ火に災いがあっても大事に至らずという言い伝えがあり霊験あらたかなのです。
(しんぶつしゅうごう)
神仏習合:
日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。
すでに奈良時代から寺院に神がまつられたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく≒本地としての仏・菩薩と、垂迹としての神。)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。神仏混淆。
(しゅくゆう)
祝融:
1)中国の古伝説上の帝王。一説では三皇の一人。
  火の神・夏の神・南方の神としてまつられる。祝融氏。祝融神。
2)火災。火事。 「祝融の災」
     梵鐘の由来
この梵鐘は広島県食鳥協会の会員が年間県下で壱千万羽の鶏魂を慰める為毎年春季に集り供養行う梵鐘供養として奉納したものです。
鐘楼は荒神堂を信仰人々の奉仕により建ち石垣は総代田中■■氏により築城したものです。
   昭和四十四(1969)年四月吉日 住職 古屋寂照
 
広島県地名辞典を参照すれば
「荒神町(こうじんまち)」は、明治15年から現在までの町名。
はじめ広島区。明治22(1889)年広島市。 〔昭和40(1965)年猿猴橋町・東蟹屋町、昭和44(1969)年西荒神町・東荒神町を分離。〕昭和55(1980)年からは南区の町名。
江戸期は矢賀村のうちに形成された町で矢賀新町(矢賀新開)と呼ばれていましたが、寛保年間(1741-1744)の頃火災が多発し、延享2(1745)年村内の荒神祠にちなみ改称。
明治15(1882)年矢賀村から分離し一町となりました。
昭和20(1945)年8月6日原爆投下後広島駅前に建ち並んだ闇市の一部が昭和21(1946)年荒神町に移転、青果・野菜・鮮魚などの食料品卸小売店が集中する荒神市場となりました。
三宝大荒神由来にある、2本のクスノキは2010年訪ねた時はすでに切り株になっていました。
1978年新幹線工事で境内90%を失ったときには健在で、由来碑が設置された1975年までは健在だったことはわかりましたが、いつ枯死したかは今のわたしにはわかりません。
鐘楼の梵鐘が1969年4月奉献されたことはわかりましたが、その寄贈者が広島県食鳥協会という事に目が留まり、殺され食用になっていった鶏の魂を慰めるための梵鐘だったのだとわかりましたので避けて通ることが(わたしには)できなかったのです。
残されている石燈籠は文政七(1824)年甲申十二月建立であることがわかりましたが、宝篋印塔の台座に刻まれた碑文などがわたしには読めず建立の経緯はわからないままです。
広島新四国八十八ヶ所霊場が再整備されるまでは、
安養院は第58番霊場だった事をご住職にお聞きしました。第57番がおやじが眠る源光院(浄土宗)だったことをお話しし、霊場から外れた経緯もお聞きしました。
2009年当時交流ウォークで荒神町の町名の由来になった荒神社は何処にあるのだろうと宿題になったのです。
地名辞典から矢賀村の一部であった地区その中にあった荒神祠(堂)から名付けたことはわかりました。
2010年ひとりで矢賀をぶらり散歩していてここ東区曙でみたのが安養院でした。
設置の三宝大荒神の由来碑をみるとここが町名由来の荒神社で、あった処かなと思い撮影したのです。
2011年交流ウォーク探検隊で訪れ、安養院のご住職にもお話を聞きました。
頁を編集しようと2012年にも訪れお参りしましたが、荒神社の鎮座地である荒神町の範囲、町の分離過程などまだまだ分からないことは多く編集をほったらかしていましたが、表題を安養院ではなく三宝大荒神社を前にして2018年のいまになりましたが一応の編集完にしました。
2019年安養院が、広島新四国88ヶ所霊場第85番として復活しました。
19.09.17.更新   18.11.27.裕・記編集

10.05.05.撮影
広島市東区曙3-4-16

10.12.17.撮影

10.05.05.撮影
(以前は広島新四国八十八ヶ所第58番霊場だった)安養院      大本山 三宝大荒神社

10.05.05.撮影
本堂

10.12.17.撮影

10.05.05.撮影
旧地=奥の院   楠の切り株 鐘楼

12.01.14.撮影

12.01.14.撮影

10.12.17.撮影
2本のクスノキの切り株

10.12.17.撮影
荒神山安養院  昭和四十四(1969)年四月吉日 古屋寂照代

10.12.17.撮影

10.12.17.撮影

10.12.17.撮影
石燈籠 三寶大荒神 文政七(1824)年甲申十二月

10.05.05.撮影

10.12.17.撮影
宝篋印塔 台座に碑文などが刻まれているようですが

12.01.14.撮影
2012年は旧地(奥の院)から移設されていました



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