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中区橋本町に建てられている「一法山清浄院・廣教寺」です。 |
廣教寺は、浄土宗のお寺です。
「知新集」によると
『新町柳町にあり、開基の由来詳らかではない、開山天蓮社青譽圓心(承応四乙未=1655年歿)。・・・』とあります。 |
知新集が編纂された江戸時代(1819-1822)は、柳町と云われていましたが、被爆当時は下柳町と呼ばれていましたので、経緯は?と思ったのです。
柳町(やなぎちょう)の名の由来は、昔路傍に 柳の木があったことによるからとか。江戸時代から明治15(1882) 年の町名だったようです。
江戸時代この地区は武家屋敷地で神田川(京橋川)の右岸に位置し、中ほどを西国街道が通る橋本町が横切っていました。
明治22(1889)年4月町村発足の前広島でも町名変更が実施されたようで、 明治11(1878)年広島区の町名となり、明治15(1882)年に上柳町と下柳町に分離されたようです。 |
石仏、墓石などが被爆した構築物として資料に記載があります。
爆心地から≒1,260m 被爆当時町名は下柳町 |
資料を見て被爆した墓石などがあるということで訪ねたのです。本堂前には歌碑などが建立されていましたがわたしが読めなかっただけですが今回紹介ができませんでした。 |
08.05.15裕・記編集 |