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中区基町の‘こども文化科学館’南側に鎮座している「広島中津宮」です。 |
御祭神: |
市杵島姫命 大國主命 八衢比古命(やちまたひこのみこと) |
室町時代の末期、当地の豪商中津某が筑前宗像大社から勧請したのに起源すると伝えられる。天正17(1589)年毛利輝元公の広島城築城に際し城郭の西の守護神として鎮祭された。廃藩後は第五師団の小姓町倉庫の一角に祠として祀られていたが、時の師団長二宮治重中将(1879
-1945)が靈夢に中津宮のお告げを受け、昭和10(1935)年広島招魂社の北側に社殿を建立祭祀した。
昭和20(1945)年8月6日原子爆弾により社殿を失い仮の小祠により祭祀を続ける。
昭和32(1957)年崇敬者川本福一氏等の奉賛により此の地に社殿を造営し、昭和33年宗教法人法による神社として登記され現在にいたっている。
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爆心地から≒400m 被爆当時の町名も基町 |
資料によると灯ろうなどが被爆したものとして掲載がありました、境内でみた灯ろうは竿から上は新しいもののように思いましたが、基壇に埋込まれた中津宮の石額、紀元2600年記念樹の石碑は、被爆したものだろうと思いました。 |
※広島招魂社(後の広島護国神社)は昭和9年この地(当時西練兵場・西端)に二葉の里から遷座しています。 |
2015年この頁をみた方より基壇北側に埋め込まれている“瑞穂神社”その北側に現在建立されている石柱が、その名残として祀られているのかと尋ねられました。
しかしわたしにはその瑞穂神社そのものがわからなかったのです。2その石柱をみたのですが刻まれた文字自体が薄くなっていて読めませんでしたので不明のままでした。2018年のいまになりましたがその由来をご存知の方にご教授いただきたいと思い画像を追加しこの頁を更新しました。 |
18.08.14.更新 05.03.21裕・編集 |