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東区中山東に建てられている「旭照山 萬休寺」です。
※1945(昭和20)年8月6日萬休寺本堂・山門・庫裏は爆心地から4,600mで被爆した建物です。
※浄土真宗大谷派のお寺です。 |
「東本願寺家譜」に
『第11代教如上人(1558-1614:東本願寺初世)は、天正9(1581)年、安芸に赴き、円澄寺(証カ)に住す」と見られるそうで、この時教如が滞在したのが、初め一心寺(一信寺)、後に円証寺と改められた寺で、同寺が広島別院の母体となりました。寺伝によれば教如は、この時、近江堅田慈敬寺の証智・教智父子を伴っていましたが、帰京に際して教智にこの寺を託したといい、教智は院号を「明信院」といったことから、広島別院は現在も明信院と号しています。
正保4(1647)年に本堂が再建されましたが、教智が没し、教智に後継者がなかったため、翌(1648)年本山の掛所となりました。この時、常念寺・万休寺・因伝寺の三ヶ寺が役僧列座に申し付けられ、一年替わりに輪番を勤めることになった。』想ですので元々は広島城下にありました。
明治10(1877)年に広島市大手筋から安芸郡中山村(現在地・東区中山東)に移ってきたそうです。 |
萬休寺の本堂・鐘楼門・庫裡は、被爆した建物です。 |
爆心地から≒4,600m 被爆当時は安芸郡中山村でした |
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人類史上初の原子爆弾が1945(昭和20)年8月6日午前8時15分広島市中心部上空約580mで炸裂、一瞬のうちに街は焦土と化しました。1917(大正6)年に再建された萬休寺の本堂・鐘楼門・庫裡も大きな被害を受けました。特に本堂は爆風により屋根が吹き上がり、叩きつけられ、屋根の太い梁も折れるなど大破しました。
戦後応急修理がなされ50年以上も使われてきましたが、本堂の柱の傾きが顕著になり危険な状態になりました。このため1998(平成10)年広島市被爆建物保存・継承事業の補助を受け、保存工事が実施され被爆の惨禍を後世に伝えています。 |
※広島市は爆心地からおおむね5km以内で被爆した建物を「被爆建物」と呼んでいます。 |
資料によると、本堂と庫裏は瓦が落ち天井に穴があいた。被爆時本堂の下陣には暁部隊が駐屯し内陣には馬具などが置かれていたそうです。
うれしいことに、本堂根際に手押しポンプがありましたので断りもなく水を出してみました、現役でした。 |
08.08.29裕・記編集 |