海田恵比須神社

  安芸郡海田町中店に鎮座している「海田恵比須神社」です。
海田恵比須神社由来記     平成2(1990)年11月吉日 海田恵比須神社世話人会
  日本の街道が整備されたのは、駅制と同様に大化の改新(645年)の時です。
その時(都から)太宰府までの山陽道を大路(おおじ)、東海道、東山道を中路(ちゅうじ)それ以外を小路(しょうじ)と定めました。
当時、海田は包浦(鼓浦)と称し、後に開田と呼ばれるようになります。
安元2(1176)年開田荘として文献に登場します。瀬野川の渓口集落であった開田は、更に海に面して土地が開かれ海田と呼ばれるようになりました。
海田は古くから交通の要地であり、西条四日市と廿日市と並んで「市(いち)」が開かれ海田市と呼ばれ、今日の安芸郡の政治経済の中心地として発展しました。この市と海に面しているところから恵比須信仰が生じてきました。
元来、恵比須は夷と書き、古くは異民族の通称であり、異郷からの来臨による幸い、つまり日本の場合は四辺が海であることから、海からの出現ないしは漂着した神という信仰が強くしたがって漁村では漂流物を神体にしている場合もあります。
時代とともに生業を守り財福をもたらす神として中世以降、七福神の一つに数えられ大黒とともに招福神の代表となり、農民や商人の信仰を集めていきました。
この祭礼は旧暦十月二十日(明治以降新暦では十一月二十日)に行なわれ、この祭礼を意味する胡子講は同業者もしくは同地区が商売繁盛を祈る神人共食の宴を持つ集まりであったが、近世中期に入ると祭礼を通じ共同大売出しを伴う行事となり、多くの人々を集めるようになりました。
江戸期、広島では藩令によって参拝時刻を戌(いぬ)の刻(午後8時)までと制限したこともあるくらい盛んでした。通常は二十日を入れて四日間でした。この他に旧暦三月二十日にこと祭り(ことこと祭り)という催事の祭りがありました。これは一名事々祭りと呼ばれ、平穏に事がなることを祈って行われました。おそらくこれは春を迎えて農業の鍬入れ漁業の本格的な出魚などの無事を祈ったものだったのでしょう。
さて、江戸幕府は三代将軍家光(1604-1651)の時、五街道と脇街道を設置しました。
五街道とは江戸を起点とした重要街道で東海道や中仙道などとし、山陽道は脇街道となりました。この街道は当時は西国街道または西国往還と呼ばれ、大阪から下関まで道幅二間半(約4.5m)と定められ整備されました。
これらのことは、寛永10(1633)年幕府巡視使の巡視を契機としたが寛永12(1635)年参勤交代制の確立のためにも重要な街道でした。その時は、海田市は西条四日市と広島城下を結ぶ宿駅人馬継立所となり、参勤交代大名・長崎奉行・幕府代官等の往来あるいは天下り(幕府公的文書状や荷物の運送)の拠点として重要な所となりました。
元禄12(1699)年熊野神社西側に本陣、高札場、問屋場、旅館食事処、小売商、各種職人の仕事場など、俗にいう宿場町としての体裁が完成しました。
これに先だち、延宝2(1674)年海田市住民は恵比須神社を勧請していました。しかし享保14(1729)年火事で焼失。宝暦11(1762)年再建。海田市はこの神社を中心として、上市・中市・下市の町名が出来るなど多くの人々の寄り処となって、今日に至っていますが、昔日の面影はありません。
海田市がかって如何に重要な地理にあったかまた恵比須神社の祭礼が如何に華やかであったかを風化させないためにここに謹んで由来を記すものです。
この恵比須神社の前を何度となく通っていたのに、立ち止まって説明板(由来記)を読んだことはなかったのです。
2005年になってこの由来記を読むと、単に海田恵比寿神社の由来だけではなく、海田の歴史を紐解く解説となっていました。
被爆70年の2015年久しぶりに熊野神社に建立の「海田町・戦没者原爆死没者慰霊塔」を訪ねたのです。
熊野神社を参拝し、帰宅のためJR海田市駅に行っている途中この恵比須神社も参拝しましたので、以前とは違う方向から撮影しましたので、この頁を更新しました。
16.02.24.更新    05.03.22裕・記編集

05.01.13撮影
広島県安芸郡海田町中店5-10

05.01.13撮影

05.01.13撮影

15.03.03.撮影

15.03.03.撮影

05.01.13撮影

05.01.13撮影
水盤石
大正三(1914)年一月吉日 中組青年会
懐かしい井戸の手押しポンプ
枝のところが壊れています



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(境内の)手押しポンプ


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