明信院(真宗大谷派広島別院)
  中区宝町に建てられている「(東本願寺広島別院)明信院」です。
※浄土真宗大谷派のお寺です。
毛利氏は本願寺との関係が深く、石山合戦(1570-1580)年を戦っている本願寺に兵粮米や玉薬を送るなどの支援を行っていました。
最後まで籠城していた第11代教如上人(1558-1614:東本願寺初世)は、天正8(1580)年8月に、織田信長(1534-1582)の圧倒的武力に耐えきれず退城し、約二年間全国各地を転々とし、一時期毛利輝元(1553-1625)を頼って広島にも留したといい、「東本願寺家譜」に「明(天正9)年、安芸に赴き、円澄寺(証カ)に住す」と見られるそうで、この時教如が滞在したのが、初め一心寺(一信寺)、後に円証寺と改められた寺で、同寺が広島別院の母体となりました。
寺伝によれば教如は、この時、近江堅田慈敬寺の証智・教智父子を伴っていましたが、帰京に際して教智にこの寺を託したといい、教智は院号を「明信院」といったことから、広島別院は現在も明信院と号しています。
正保4(1647)年に本堂が再建されましたが、教智が没し、教智に後継者がなかったため、翌(1648)年本山の掛所となりました。この時、常念寺・万休寺・因伝寺の三ヶ寺が役僧列座に申し付けられ、一年替わりに輪番を勤めることになったそうです。
戦前までは、広島城正面の大手町6丁目にありましたが、原爆によって全壊焼失しました。
昭和26(1951)年に宝町で再建されることとなり、現在の本堂・庫裏は再建当時のままの木造平屋建てだそうです。
(東区の被爆建物である)萬休寺を訪ね、調べているときにこの明信院のことを知り、立ち寄って撮影しました。
広島は浄土真宗宗徒が多数をしめ安芸門徒と云われて浄土真宗本願寺派の地でありますが、大谷派のお寺は少ないのです、1945(昭和20)年8月6日原爆で全壊全焼したとはいえ、再建さられたこの真宗大谷派広島別院を見たとき門徒の少なさを思ってしまいましたが、人口減になったといわれる日本国、仏教徒の減も必然の世になってこれからの寺院の行く末を暗示している??
 08.09.20裕・記編集

08.07.19.撮影
広島市中区宝町4-16

08.07.19.撮影

08.07.19.撮影



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