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安佐北区大林町の(現在の)大林八幡神社の上に位置する「伊勢が坪城跡」です。 |
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広島県史跡 熊谷氏の遺跡 伊勢が坪城跡 昭和53(1978)年3月1日広島市教育委員会 |
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承久の変(1221)で討死した熊谷直国(?-1221)の功績が鎌倉幕府に認められその子直時(1217-1280)は安芸国三入荘の地頭に任ぜられました。武蔵国熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)からこの地に赴任した直時は三入荘北部の比高30mばかりのこの小高い山に伊勢が坪城を築きました。この城は東側の山との連なりを空掘で断ち切り一応独立した山城の性格を持っています。また東端の山頂を削平して本丸とし、更に西に向って四つの曲輪を配置していたことが、今日の遺構から判断できます。 |
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三入荘での地歩を固めた熊谷氏は、その勢力の拡大をはかって戦略的により優れた高松山にやがて本拠を移すことになります。その時期は室町期に入ってからと思われます。なお高松山へ遷城後の伊勢が坪城はしばらくの間は隠居所として利用されていたといわれています。 |
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「承久の乱」(1221)の戦功により安芸国に入った当時・熊谷氏は当初三入荘北端に伊勢ヶ坪城を構え、居城としました。しかし戦乱の世になり、平坦な丘にある伊勢ヶ坪城の防備に不安を感じ、当主・熊谷直経(1283-1365)は急峻な高松山に居城を構えました。これが三入高松城です。
しかし、応永年間(1394-1428)に築城されたとする説などもあり、正確な築城年月は不明です。 |
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熊谷氏は、後に毛利氏の家臣となり、関ケ原合戦の敗戦で毛利氏が萩に転封したのに従い萩に移ったのです。 |
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大林八幡神社を訪ね参拝した主目的は、境内に建立されている(旧大林村)戦没者慰霊碑を訪ね頭を垂れ撮影することでした。事前に広島市の公開資料で場所を調べ、NET地図を見た時、大林八幡神社の根際にここで取り上げた「伊勢が坪城跡」があることに気が付き、慰霊碑などを巡った後立ち寄ってみようと思っていたのです。
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設置の説明板はすぐにわかりましたが、そこからどう本丸跡まで行くのかがわかりませんでしたが、人が通った後と思える細い道を上っていきました。
説明板の平面図はかろうじてわかりましたが、断面図は日焼けしてすでにわからないものになっていました。
帰宅後広島県教育委員会の資料に詳しい平面図が掲載されていましたが、転載禁止とありましたので、この頁に掲載できません。現地説明板の解説図を訪れた人にわかるようにするのが必要だと思いました。 |
16.09.04.裕・記編集 |
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16.08.20.撮影 |
広島市安佐北区大林町3697 伊勢が坪城麓設置の説明板 |
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16.08.20.撮影 |
説明板(よくわからない矢印)から本丸跡への道はこれから整備されるのでしょう |
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16.08.20.撮影 |
上る途中の平たくなった処、郭跡かなと思いました |
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16.08.20.撮影 |
(見上げると説明板らしきものが)あそこが本丸跡かなと |
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16.08.20.撮影 |
平成27(2015)年1月設置された説明板がありました |
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16.08.20.撮影 |
山頂を削平して本丸だった処 |
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16.08.20.撮影 |
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16.08.20.撮影 |
設置の説明板の図面を使用。この平面図の下に断面図がありますが経年変化でよくわかりません |
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坪が城跡からみる大林地区、遠く三入可部も |
16.08.20.撮影 |
昨(2015)年設置の説明板 |
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16.08.20.撮影 |
(広島土砂災害を起こした)阿武山がみえましたが高松城跡は?? |
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16.08.20.撮影 |
大林地区(一部) |
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16.08.20.撮影 |
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