|
東区二葉の里の明星院に(新たに整備)建立されている「加藤種之助墓碑」です。 |
加藤種之助(かとうたねのすけ:1844-1891)※
成人した幕末に尊王の士として活躍しました。廃藩(1871年)後は、陸海軍へ奉職し海軍大尉となりました。
明治元(1868)年官軍の広島藩・神機隊(参謀として)を率いて(戊申の役で)江戸から奥州各地で活躍しました。明治10(1877)年西南の役では広島(藩)より挙兵して大隊長*1)として九州各地へ転戦し功を挙げました。明治24(1891)年四十八歳にて歿しました。東京青山楳窓院*3)の葬られています。加藤家は代々広島藩士でした。
加藤友三郎(1861-1923:海軍元帥、首相)は、実弟(友三郎の父親代わりでした。 |
 |
|
※ |
設置の説明板には
『天保十四年(1844年)生まれる。』とありますが天保14年は1843年です。
歿年が『明治二十四年(1892年)四十八歳にて歿す。』となっていますが、明治24年は1891年です。
わたしが参考にした資料では、1844-1891とありますので、上記は設置説明板とは違っています(ので)。 |
*1) |
廿日市市宮島町に「腔血報国」碑が建立されています。その中で加藤種之助について触れています。
『西南戦争では、各地で旧士族を含む壮丁*2)が募集され、官軍救援に送り出され、広島でも約1000名の壮丁を集め「遊撃歩兵第八大隊」を組織(隊長:加藤種之助中尉)して第一旅団:司令長官・野津鎮雄陸軍少将麾下に入り待機していました。薩軍が可愛岳(標高728m)の険を越えてくることはないと安心して休養していた所を強襲され官軍の損害おびただしく(資料によっては食糧米2500表、現金8000円を残して)逃走しました。その中に広島編成の「遊撃歩兵第八大隊」も不意を討たれ大損害を蒙りました。・・・・』とあります。
|
*2) |
壮丁(そうてい)とは、
労役・軍役にあたる成年の男子。特に、明治憲法下で、徴兵検査を受ける義務のある満20歳の男子。
〔1873(明治6)年1月10日に布告された徴兵令〕 |
*3) |
梅窓院(楳窓院:ばいそういん)
東京都港区南青山2-26-38。浄土宗のお寺で、長青山寶樹寺と号します。
梅窓院は、大本山増上寺十二世普光観智国師を勧請開山、郡上八幡城主青山大蔵少輔幸成が開基となり、寛永20(1643)年青山大蔵少輔幸成の側室を大檀越として青山家下屋敷内に創建したと伝わっています。 |
|
2014年暮れ久しぶりに立ち寄りお参りした後、本堂横の「伴資健翁之碑」「香川南浜先生碑」「景友碑」を久しくみていなかったなと行ってみたのです。そこには並んでいた碑がなかったのです。
そんなに広くない境内をみましたがなかったので隣の墓苑の方に移設されたのかなと思って路地に出た時みたのが新しく並んで整備されていた上記碑たちでした。
そして今までは(わたしが編集していなかっただけですが)ここで取り上げた「加藤種之助墓碑」にも説明板が設置荒れていました。。どの碑にも(いままでなかった)新しい説明板が立てられていましたので、この加藤種之助が総理大臣にもなった加藤友三郎の(年が離れた)兄だということがわかり撮影しました。 |
16.12.09.裕・記編集 |
|
|

14.12.11.撮影 |
広島市東区二葉の里2-6-25 (明星院境内に建立) |
|

08.09.01.撮影 |
移設前の本堂横に建立されていた当時
(画像では写っていませんが)「伴資健翁之碑」 「景友碑」 「南濱香川先生碑」 「加藤種之助墓碑」 |
|
|

14.12.11.撮影 |
(碑文はわたしの漢文力では読み下せませんでした) |
|

14.12.11.撮影 |

14.12.11.撮影 |
明治二十九(1896)年六月■■ 親友建之 |
(読めませんでした) |
|

14.12.11.撮影 |
(碑裏側) |
|

14.12.11.撮影 |
「加藤種之助墓碑」 「景友碑」 「伴資健翁之碑」 「南濱香川先生碑」 |
|