おながてんまんぐう
尾長天満宮

  東区山根町に鎮座している「尾長天満宮」です。
祭神:菅原大神、大穴牟遅神、少名毘古那神、宇気母智神
菅原道真(845-903)公が暫く休まれた事で尾長山の峯を菅大臣(かんだいじん)山と称し、村民祠を建ててお祀りしましたが、久しくして荒廃しました。
その後、平清盛(1118-1181)が神徳を感じ、神祠を創建して菅原大神を勧請しました。
承久年間(1219-1222)守護・武田信光(1162-1248)が再建、文和年間(1352-1356)武田直信が大麻天神の祭神六座を合祀して天満宮と号しました。武田氏滅亡後、天正年間(1573-1592)毛利輝元(1553-1625)は社領を寄せています。
寛永17(1640)年藩主・浅野長晟(1586-1632)の命で山麓に神殿を建立して大麻大神六座の内、大穴牟遅神、少名毘古那神の二神と菅原大神を遷座し、次いで享保年間(1716-1736)いまの地に再遷し、天神宮と号しました。また、菅大臣山に四神を留めこれを古天神と称しました。
享和3(1803)年以来天満宮と称し、明治5(1872)年以降尾長天満宮と称するようになりました。
明治40(1907)年7月水害で社殿が破損しました、明治42(1909)年2月尾長村字片河稲荷神社を合祀しました。
大正15(1926)年9月水害で社殿が倒壊し、氏子の総力を挙げて復旧しました。
昭和20(1945)年8月6日米軍投下の原子爆弾で大破しましたが焼失は免れ、昭和22(1947)年に修復されました。
                
爆心地から≒2,600m
学問・書道の神として古くから崇敬された菅原道真が、九州大宰府に下る途中、尾長山の麓に船を寄せこの山に登って休息したと伝えられ、その場所に小祠が建てられました。
やがてかって京都において浅野長晟の連歌の相手をした松尾忠正(熱心な菅公の信者)が広島を訪れ寛永17(1640)年民家に近い山の麓、道真由来の場所に社殿を建立して菅神を祀りました。その後享保年間(1720年頃)今の場所に社殿を再建したそうです。
現在の本殿は饒津神社にあった招魂社(明治時代の建物)を昭和12(1937)年に移したものです。
何度かお参りした尾長天満宮でしたが、2005年被爆建物という事で撮影しようと思ったのです。
随身門、拝殿は撮影していましたが、本殿を撮影していませんでしたので、2008年撮影し、菅原道真が腰掛けたと伝えられる石を撮影し別頁で編集しました。
(広島)市設置の説明板でこの頁を編集していましたが、祭神や武田氏、毛利氏などの記述がありませんので、天神川源流を探索し(別頁で編集し)た2013年のいまになりましたが加筆しました。
13.03.04更新   05.06.13裕・記編集

05.06.07.撮影
広島市東区山根町36-16

05.06.07.撮影
被爆建物
随身門(ずいじんもん)の由来
この随身門は今から360余年前寛永17(1640;水戸黄門の時代)年に建立された由緒ある建築物です。
尾長天満宮は菅原道真公が901(延喜元)年ここにお立寄りになった処です。平安時代平清盛(安芸の守であった時)がこの峰にさしかかった時大豪雨と激しい落雷にあい絶体絶命の窮地に陥った、その折管大臣のご加護を祈り九死に一生を得た。清盛は神徳を感じこの一帯を『管大臣(かんだいじん)の峰』と名付け峰に社殿を建立したのが始まりです。1640(寛永17)年麓の現在地に社殿・随身門が造営されました。
昭和61(1986)年3月
尾長天満宮

05.06.07.撮影
社殿

05.06.07.撮影
拝殿から本殿をみました

08.12.19.撮影

08.12.19.撮影
本殿:三間社流造り、銅板葺き(間口9尺4寸、奥行7尺5寸)

11.12.03.撮影
〔被爆建物〕 本殿は、饒津神社にあった招魂社(明治時代の建物)を昭和12(1937)年に移したものだそうです。



「神社寺院など」編


被爆した建物・構築物」編



広島ぶらり散歩
尾長天満宮
(尾長天満宮の)狛犬
菅原道真腰掛石
(尾長天満宮)古天神社
(尾長天満宮)旧蹟社
天神川源流
(番外)尾長天満宮の絵馬
二葉山山麓七福神寿老人


「牛田・二葉の里・矢賀附近」編


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