しょうこうじ
聖光寺

  東区山根町に建っている「広島山 聖光寺」です。
※1965(昭和40)年洞景山・聖光寺と万松山・瑞川寺が合併し「広島山・聖光寺」と称するようになりました。
聖光寺は、洞景山・聖光寺と称し足利尊氏(1305-1358)の妹「梶子姫」の開基、元広島県賀茂郡安宿(現:豊栄町)東西三十町南北二十町七堂伽藍を備え塔司十二ヶ寺あり、応永元(1394)年悦堂常喜禅師を開山とす。
本尊は「十一面観世音菩薩」2度の火災にあい、寛永元(1624)年十世亀翁覚禅師の代、福島正則公の要請に依り広島・東寺町新川場に移転(現:中区小町)明治の頃まで曹洞宗大本山「総持寺」(横浜・鶴見)の輪番寺として大本山の住職をつとめた。昭和20年8月6日原爆にて焼失。
瑞川寺は、元山号万松山と称す、明室周尊禅師の開基。菅原道真(845-903)公西下のみぎり立ち寄り小憩「水を掬(きく)す瑞川の流れ 月を弄す 二葉の里」の詩を残す  〜天神清水の名あり〜  
毛利輝元(1553-1625)公、島普請の際二葉山に登り地見*、瑞川寺に宿すこの時山号を広島山と改む後広島城主浅野公代、国泰寺十八世大雄魏健禅師を請し開山す。本尊は「阿弥陀如来」
昭和20年8月6日原爆にて焼失。
昭和40(1965)年聖光寺二十八世・瑞川寺八世大機哲翁和尚の代、両寺合併「広島山・聖光寺」と称す。昭和58(1983)年本堂、増輝稲荷神社再建。昭和62(1987)年開山堂を建立。
平成元(1989)年観音像、平成7(1995)年鐘楼、平成10(1998)年山門を建立。 瑞川寺の寺号は瑞川霊園、洞景山の山号は禅庭の「洞景苑」としてその名を残す。
平成10(1998)年春二十九世住持大覚哲彦記之
天正17(1589)年広島城を造営するため広島に来て明星院山(現:二葉山)に登り検分、この寺に泊まり、五箇ノ所(箱島、在間、平塚、鍛冶塚、広瀬)などと呼ばれていた地名を広島と改め、広島山の山号を贈ったと伝えられています。
元禄14(1701)年赤穂浪士討ち入り後、寺坂吉右衛門(1665-1747)が仇討成就の知らせを国元の広島藩浅野家に報告し、持ち帰った大石内蔵助父子の遺髪を浅野家の菩提寺・国泰寺に葬って欲しいと申し出たが科人(とがにん)故浅野家は遠慮し瑞川寺に葬ることになったと伝えられ、お寺には大石内蔵助父子の供養墓があります。
2005年二葉の里歴史の散歩道の中のお寺として紹介がある、この聖光寺を訪ね、お参りしました。
2008年お参りした時は、大石内蔵助父子供養墓、洞景苑内の吾唯足知を撮影しましたのでこの頁を更新しました。
山号を‘洞景山’と、もともとの聖光寺の山号を使って頁を編集していました。お寺に設置の縁起板にはっきりと「広島(廣島)山」とあるのに、理解もせず間違っていましたお許し願いつつ、訂正しました。
23.02.04.更新  05.05.13裕・編集

05.06.07.撮影
広島市東区山根町29-1

05.06.07.撮影
昭和58(1983)年再建の本堂

05.06.07.撮影

05.06.07.撮影
「赤穂義士大石内蔵助父子供養墓當山在於」の石碑 平成元(1989)年建立の観音像

06.01.21.撮影

06.01.21.撮影
大石内蔵助父子供養墓(移設前) 洞景苑内の吾唯足知

12.01.09.撮影
本堂内部

22.01.20.撮影
"二葉の里歴史の散歩道”から聖光寺山門をみました

22.01.20.撮影
「曹洞宗 聖光禪寺」寺号標        山門              「不許葷酒入山門」碑

22.01.20.撮影
参道から右手の本堂をみました

22.01.20.撮影
参道を上っていくと瑞川霊園へ



広島の神社仏閣」編


「牛田・二葉の里附近」編



広島ぶらり散歩へ
聖光寺
  (現在の)大石内蔵助父子供養墓
  (移設前)大石内蔵助父子供養墓
  (聖光寺の)判じ文字(吾唯足知)
  (聖光寺の)盥漱石
  (境内の)霊水・瑞泉
  (境内建立)梅園介庵翁之碑
  (境内建立)原道卿君之碑
  (境内建立)高間壮士之碑
  (境内建立)木原松桂翁之墓
  (境内建立)栗本軒貞国歌碑
  (二葉山山麓七福神) 布袋尊


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