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安芸区畑賀町に鎮座している「中須賀神社」です。
※境内には「日露戦役記念碑」、「殉国慰霊塔」、「大礼記念修磴碑」が建立されています。 |
御祭神: |
息長足姫尊(神功皇后)
誉田別尊(応神天皇)
足仲彦尊(仲哀天皇) |
相殿神: |
少名毘古那尊(恵美寿の神) |
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武内宿禰尊(武内大臣) |
由来略記: |
當神社は平安期のはじめ大同年間(808年頃)豊前の国(大分県)宇佐八幡宮よりの勧請と伝えられている。 |
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一 |
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神
楽
殿
造
営
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社
務
所
再
建
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境
内
杉
及
桧
植
林
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境
内
老
松
神
木
・
六
〇
〇
余
年
・
伐
採
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表
参
道
石
段
・
一
八
〇
段
・
造
営
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幣
殿
拝
殿
屋
根
葺
替
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神
殿
屋
根
葺
替
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幣
殿
拝
殿
屋
根
葺
替
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幣
殿
拝
殿
再
建
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東
側
石
灯
籠
寄
進 |
表
参
道
中
央
鳥
居
奉
造
進
|
拝
殿
前
石
灯
籠
寄
進
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幣
殿
拝
殿
神
璽
再
建
|
拝
殿
額
改
造
寄
進
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幣
殿
拝
殿
神
璽
再
建
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昭
和
五
十
三
年
九
月
六
日 |
昭
和
四
十
五
年
三
月
十
五
日 |
昭
和
四
十
四
年
三
月
吉
日 |
昭
和
三
十
一
年
一
月
二
日 |
昭
和
三
年
十
月
吉
日 |
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昭
和
六
十
一
年
六
月
吉
日
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昭
和
五
十
年
十
月
吉
日
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明
治
十
年
九
月
吉
日
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弘
化
二
年
九
月
吉
日 |
文
政
十
年
八
月
吉
日
|
文
化
八
年
九
月
二
十
二
日
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寛
政
七
年
八
月
吉
日
|
享
保
十
九
年
六
月
十
二
日
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承
応
二
年
九
月
吉
日
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大
永
八
年
八
月
二
十
一
日
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1978 |
1970 |
1969 |
1956 |
1928 |
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1986 |
1975 |
1877 |
1845 |
1828 |
1811 |
1795 |
1734 |
1653 |
1528 |
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ま
た
地
番
の
初
め
と
な
っ
て
い
ま
し
た |
こ
の
土
地
は
古
墳
時
代
か
ら
の
住
居
跡
で
貝
塚
が
多
く
|
右
造
営
・
再
建
に
係
る
棟
札
は
御
神
殿
に
奉
納
さ
れ
て
い
ま
す
|
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長い長い石段を途中休憩しながら登ったのです。由来版を見ると1200年にも及ぶ古い歴史の神社だったのかと思ったのです。
広島市文化財団文化科学部文化財課の資料では消えてしまった遺跡ということで中須賀神社境内遺跡が紹介してあります。お参りして、持参のお茶を飲み休憩して誰もいない境内をゆっくり拝見しました。 |
HPを引越している2011年この頁を見ると画像処理のまずさばかりが目立つ頁でしたので、(PCを壊したこともあり失った画像もあるのですが)この中須賀神社の画像は保存していましたので、画像を差替えたり追加しました。
また、日露戰役紀念碑(日露戦役記念碑)を編集した時は、揮毫者に関心がなかったのですが、今回見ると「龍谷勧學黙雷書」と刻まれていました。黙雷とは号ではあるのでしょうが珍しいので、辞書でチト調べてみましたので追記しました。 |
11.09.08更新 05.08.11裕・記編集 |
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05.07.08.撮影 |
広島市安芸区畑賀町302 |
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05.07.08.撮影 |
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05.07.08.撮影 |
最後の石段 狛犬 日露戰役紀念碑 |
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05.07.08.撮影 |
拝殿 |
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05.07.08.撮影 |
拝殿、幣殿、本殿:三間社流造、瓦葺(間口三間、奥行三間) |
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05.07.08.撮影 |
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05.07.08.撮影 |
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本殿前の随身像 |
六百有餘年の松の写真(終戦の夏とあります)
由来版に昭和31(1956)年に伐採とあります |
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日露戰役紀念碑 龍谷勧學黙雷書 明治四十(1907)年七月建之 |
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しまじもくらい
島地黙雷
1838-1911 |
浄土真宗本願寺派の僧。周防(すおう:現・山口県東部)和田で専照寺の四男として生まれる。
神仏分離、大教院廃止を主張、各宗独立に努力。また、日本赤十字社の創立などに活躍。著「仏教各宗綱要」「維摩経講義」など。 |
かんがく
勧学 |
(2) 浄土宗や浄土真宗本願寺派などで授ける、学階の最高位。
1) 学問を勧め励ますこと。奨学。 |
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05.07.08.撮影 |

05.07.08.撮影 |
大禮記念修磴碑 従四位勲三等吉田賢龍 |
中須賀神社由緒略記・碑 |
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昭和・即位の礼
だいじょうさい
大嘗祭 |
昭和3(1928)年11月6日、昭和天皇(1901-1989)は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し、京都御所へ向かった。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、天皇の乗る六頭立て馬車・香淳皇后(1903-
2000)の乗る四頭立て馬車・皇族代表・内大臣・総理大臣の馬車と続きました。
11月10日、即位の礼当日の参列者は勲一等以上665名、外国使節92名他、2000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一(1864-1929)が万歳三唱しました。天皇は紫宸殿(ししいでん)の儀を終えた後、11月21日に伊勢神宮で即位の報告をし東京へ戻った。東京に於いても宮中晩餐・夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われた。昭和の大礼の総予算は当時の金額で1968万3637円50銭5厘とわれています。 |
吉田賢龍
1870-1943 |
石川県生まれ。東京帝国大学哲学科卒業。
1920(大正9)年4月広島高等師範学校長。1939年(大正14)年従四位勲三等瑞宝章。1929(昭和4)年広島高等師範学校長兼任のまま広島文理科大学初代学長(1929-1934)任命。1932(昭和7)年勲二等瑞宝章。1934(昭和九9)年従三位。 |
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(中須賀神社建立の碑)殉國慰霊塔
北清事変・台湾事変・日露戦争・支那事変・大東亜戦争で亡くなった56名を祭っています。 |
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